ドラマ軍師官兵衛について

 ただいまご紹介いただきました小和田哲男です。

 今年の大河ドラマ軍師官兵衛、時代考証をやっておりまして、回を追うごとに視聴率が上がってきた。これは私もドラマづくりをやっている人間としては非常に嬉しい、段々下がっていくっていうのでは、ちょっとやる気をなくしてしまうんですが、段々上がっているというのは嬉しいなと思っています。

 特に東日本と西日本という言い方で分けると、西の方がやはり視聴率は高い。やっぱり姫路とかさらに九州の方で活躍するという、主な舞台が西日本ですので、どうしてもそうなるのかなというふうに思います。

 ちょっと面白い話がありまして、これはそれこそドラマが始まる頃だったんですが、大分県の知事さんがNHKのドラマ部を訪ねて来られまして、いままで昭和38年、1963年に有名な『花の生涯』、これがNHKの大河ドラマ、要するに日曜日夜8時という時間帯でのドラマが始まって50年経つ、と。たしかにそうですね、1963年からですから、50年経つ。誰が調べたのかよく分からないのですが、50年やっていて一度もドラマの舞台にならなかった県が三つあるそうなんです。分かりますかね? 私も知りませんでしたが、話を聞いていて。

 まず一つは秋田県。そういえば秋田県が舞台になった記憶はないな。それから宮崎県。これもないな。で、もう一つが大分県だそうです。だから知事さんは今度初めて大河ドラマの舞台になるっていうので喜んで、NHKに表敬訪問に来たという話だったんですけれども。たしかにこれから中津が少し舞台になってきますので、そういった意味では地域起こしというのでしょうか、地域の活性化というのが、NHKの大河ドラマというのはやっぱり一役買っているなって、そんな印象を受けています。

 今年のドラマ、軍師官兵衛の場合は原作がないんですよ。原作なしで、じゃあどうやっているの?と言うと、脚本家の方が一話一話シナリオをつくってくるわけですけれども、そのシナリオになるような元の原材料といいましょうか、資料なんかを私の方で提供しているということで、いきなりシナリオライター、脚本家の方が一話一話シナリオをつくってきます。

時代考証について

 時代考証をやる立場からすると、その方が有難い。原作があると、どうしても原作に縛られてしまうのですよね。特に原作を書かれた方がご健在であればまだいいのですが、亡くなってる場合には手の施しようがない。例えば2006年、『名が辻』。これは司馬遼太郎さん原作でして、司馬さんはご承知の通り、もうその時点で亡くなっておられましたので、原作者が亡くなっているという状況で、原作司馬遼太郎で『名が辻』というのを1年間放送したわけですけど。

 いくつか時代考証をやっていてスタッフとぶつかったことがあります。例えばいちばん私が、今でもちょっと、うーんという形で思っているのは、これもいちばん有名なシーンですけれども、山内一豊が馬市で名馬を見つけた、だけど値段を聞いたら十両だと言われて、うちにそんな蓄えはないし、と思ってうちへ戻ってちょっとしょげていると、妻の千代、仲間由紀恵さんがその年やっておりましたが、彼女がどうしたんですか?って聞くと、これこれこういう訳だ。そうしたら千代が鏡箱の底に十両貯めてあったのを出して、これで買って来なさいよ、と。

 で、一豊は喜び勇んでその十両を持って買いに行って、その名馬が信長の目に留まって出世をした、という有名な話なんですが、これが司馬さんの原作だと天正4年、1576年。これを私がいろいろ計算というか研究をして、その頃の一豊の年収を計算していたんですが、今のお金にすると2000万円ぐらいあるんですよ、年収が。そうすると当時の馬はどんなに高い名馬といわれる馬でも一頭100万円ですよ。

 だから2000万円収入があって100万円の馬を買えないわけがない。これはもっと前の話だ、と。少なくとも4、5年前だと一豊の年収は4、500万円ですから、そうすると100万円の馬はちょっと手が出ないねということになるので、これは原作が違うのでもっと前に持ってきて欲しいと一生懸命言ったんですけど、原作は変えられませんの一言で、結局は安土の馬市で、ということで放送するということになりました。

 あと多いのが、やはり演出の人たちとのやりとりですね。これは3年前、『江 ~姫たちの戦国~』の時の最初のシーンですけれども、織田信長が小谷城、これは浅井長政の城を攻めるんです。信長という人は、これもご承知の方が多いと思いますが、平気でどんどん火をつけて行く。滋賀県へ行きますと今でも信長によって焼かれたっていうお寺や神社がいっぱいあります。

 そういうように、お城に限らず、お寺も神社もどんどん火をつけて行った信長が、あの小谷城に関しては、これは文献的にはですね、3年間攻めるんですけど、一度も火をかけたという記述はないんです。麓の村々は焼いていますよ。城下も焼いています。だけどお城本体には火をつけていない。それから小谷城はいま、国の史跡になっていまして、継続的に発掘調査をしています。

 私もいま掘っていますよ、という情報が入ると、出来るだけ時間をつくって見に行って、掘っている人から生の証言をもらっています。今までいろいろなところを掘っているけれども、まだ焼けた痕跡はどこからも出ていない、ということで、私は自分が書いた本には、小谷城を信長は3年間攻めたけれども、とうとう最後まで火をかけなかった、という書き方をして、そこから先は私の推測ですけれど、それは多分、城内に自分の可愛い妹、お市がいたからだろう、ということで時代考証の席でも、小谷城は焼けていませんからね、ということで念押しをして、シナリオ段階では焼かないことになっていたのです。それで、こちらもちょっと安心をしていたら、収録の直前でした。

 チーフディレクターが、プロデューサーとディレクターとトップが二人いるんですけどね、映画でいうと映画監督に当たる人から電話が来まして、これからお市が三人の娘たち、茶々、初、江ですね、三姉妹を連れてお城を出る、そのシーンを撮るんだけども、彼女がちらっと後ろを振り返る時に、どこからも煙が上がっていないと小谷城落城だと見ている人が見てくれない。

 この時の言い方、「ちょっとだけでいいですから火をつけさせてください」。私はちょっとだけも「ダメですよ、焼けていないんだから」と断ったんですけれども、そこから先は懇願されまして、「これは演出上必要ですからお願いします、お願いします」の一点張りで、こちらも可哀想になっちゃって、「じゃあしょうがない、ちょっとだけですよ」ということでOKを出したのです。出来上がったシーンを見たら、結構大々的に燃えていましてね、ああ、これはちょっと騙されたなという、そんな思いでおります。

 あと多いのがやっぱり、シナリオの段階でセリフのチェックですね。当時こんな言葉は使わないよ、とか、こういう言い方はないよ、というのはしょっちゅう直しは入れています。面白い例がありまして、これは『天地人』の時ですね、2009年、直江兼続が少しいい仕事をし始めた時に同僚たちから、「これでそなたも殿のお眼鏡にかのうたな」という言い方が出てきまして。いやちょっと待って下さい、まだ眼鏡は…、ということで。確かに眼鏡はありますよ。

 宣教師たちがかけている眼鏡はありますし、徳川家康も眼鏡をかけていたので、戦国に眼鏡はあったのですが、ただ家康がかけていた眼鏡が今、国の重要文化財になっているくらいですから、そんな一般の人が眼鏡をかけている訳はないので、眼鏡にかなうなんて言い方はもっと後だ、ということで、そういうセリフのチェックを入れています。

 そんな時代考証の仕事をしておりますけれども、今回のドラマに関して、その時代考証の立場からもう少し官兵衛の生き様なり、あるいはやって来たこと、そういった所を少し掘り下げてみたいと思います。今日はそれこそドラマ上、過ぎた話を含めて、これから展開するところまで含めてお話していきたいと思っていますが。

 


 


owasda_02  小和田哲男(おわだ・てつお)
1944年 静岡市に生まれる 1972年 早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了 現在  静岡大学名誉教授、文学博士専門は日本中世史、特に戦国時代史で、主著『後北条氏研究』『近江浅井氏の研究』のほか、 『小和田哲男著作集』などの研究書の刊行で、戦国時代史研究の第一人者として知られている。 また、NHK総合テレビおよびNHK Eテレの番組などにも出演し、わかりやすい解説には定評がある。 NHK大河ドラマでは、1996年の「秀吉」、2006年の「功名が辻」、2009年の「天地人」、2011年の 「江~姫たちの戦国~」で時代考証をつとめ、2014年の「軍師官兵衛」も担当している。
主な著書
『戦国の群像』(学研新書 2009年)、『歴史ドラマと時代考証』(中経の文庫 2010年)、『お江と戦国武将の妻たち』(角川ソフィア文庫 2010年)、『黒田如水』(ミネルヴァ日本評伝選)(ミネルヴァ書房 2012年)、『戦国の城』(学研M文庫 2013年)、『名軍師ありて、名将あり』(NHK出版 2013年)、『黒田官兵衛 智謀の戦国軍師』(平凡社新書 2013年)、『戦国史を歩んだ道』(ミネルヴァ書房 2014年)