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『A Short History of England』Simon Jenkins
(Profile Books Ltd.)

 

 ロンドンの国会議事堂(ウェストミンスター宮殿)を知らない人はいないだろう。テムズ川ぞいにそびえるビッグベンという大きな時計塔は、メアリーポピンズやピーターパンなど、イギリスの童話を題材にした映画にも登場する。上下両院、特に衆議院(庶民院とも訳される)の本会議場で行われる質疑応答は、クェスチョンタイムと呼ばれる。与野党が向き合い、ベンチと呼ぶ階段状の席に座る議員たちが代わる代わる自席で立ち上がっては短く質問し、首相や大臣が中央のテーブルにもたれるかかるように立って答える。みなさん言葉の使い方が上手で感心する。

 一昨年から今年にかけて、このイギリス議会を2度訪れた。2012年の11月、知り合いのイギリス人新聞記者が案内してくれたのが、文字通り生まれて初めての見学。その3ヵ月後、今度は友人の貴族院議員に院内の議員食堂での夕食に招かれた。長いあいだ訪問したいと思いながら実現しなかったのに、続けて2回ゆっくりと見学できたのは僥倖である。

 最初の訪問では運良く閉会中の両院本会議場に入れたが、2度目はさらに(おそらく友人の特別のはからいで)議事進行中の貴族院本会議場の隅にしばらく座らせてもらった。ここがキャメロン首相の席、あそこが女王の玉座と、議会のすべて興味深かったけれど、実は私にとっていちばん嬉しかったのは隣接するウェストミンスター・ホールの見学である。

 ウェストミンスター・ホールはウィリアム征服王の息子ルーファス(ウィリアム2世)が1097年に建造した古い建物で、内部は天井の高い、大聖堂のいすを取り払ったような、特に変哲のない空間である。しかしこの場所こそはノルマンの征服から現代まで続くイギリス歴代王朝最初の宮廷であり、また議会と裁判所発展の舞台でもある。まだ行政権、立法権、司法権が未分化であった昔から、王とその臣下たちはここで行政に携わり、法律を制定し、裁判を行った。宮廷と裁判所を意味する英語のcourtという言葉が同じであるのは、偶然ではない。

 中世の雰囲気を多分に残すこの建物のなかで、有名なできごとがいくつも起きた。ヘンリー8世の逆鱗に触れて宰相トマス・モアの裁判が行われ死刑を宣告されたのは、ここである。反抗を続ける議会に業をにやしたチャールズ2世が自ら兵を引き連れ5人の指導的議員を謀反人として逮捕せんと踏みこんだのも、当時下院が開かれていたこのホールである。国王の姿に驚いた下院議長は、自分の席を国王に譲りながら、謀反人はどこにいるかとの国王の問いに対し、「陛下、私が仕える議会の許しがなければ、この場所で私は見るための目も話すための舌ももちあわせませぬ」と回答を拒んだ。そのあいだに5人は姿を消す。以後「王下院に靴を入れず」という不文律ができたという。

 その後清教徒革命が起こり、捉えられてロンドンに連行された同じチャールズ2世は、このホールで裁判にかけられ死刑判決を宣告された。案内してくれた友人の貴族院議員によれば、

 「国王はホールの階段の踊り場に座らされた。審理が始まってしばらくして、国王は握っていた王杖をうっかり落としてしまう。ホールを深い沈黙が支配した。ふだん自分では何もしない国王は、当然だれかが拾ってくれると思って動かない。人々は固唾を呑んで、いったい誰が拾うのかと見つめている。誰も拾わない。何分かたって、判事の一人が声を上げた。「自分で拾いなさい」。国王はしかたなく、自らかがんで杖を拾う。その瞬間、国王は負けた」

 これらの有名な事件だけでなく、ウェストミンスター・ホールは中世を通じて王座裁判所などイギリスの主要裁判所がおかれたところである。中世、この建物はあらゆることに用いられた。ホールのなかには商店さえ並び、ロンドン市民が行き来していた。そんななか、中央の通路に面した一角を板で囲って法廷が置かれ、裁判官は壁ぞいのベンチに座り審理を行った。今でも裁判官のことを総称して英語でベンチというのは、このためである。その前に書記が座るテーブルが、さらに通りから法廷を遮る柵が置かれた。弁護士は柵の外に立って弁論を行った。法曹のことを英語でバーと呼ぶのも、この柵からきている。

 私が今立っているところに、かつてトマス・モアが、チャールズ2世が立って裁きを受けた。毎日コモンローの判決が下った。チャーチルの棺が置かれた。イギリス法を起源とするアメリカの法律と憲法を勉強した私にとって、ウェストミンスター・ホールの訪問は、まことに得がたい経験であった。

 しかし如何せん、こうした数々の逸話を聞いても、それを十分理解するだけのイギリス史に関する一般的な知識を持ち合わせていない。議会とウェストミンスター・ホール見学でこの国の歴史への関心を改めてかき立てられ、3月ロンドンへ出張のおり、ピカデリーの本屋で「短いイギリスの歴史」(A Short History of England)という、索引もふくめて全部で319ページのペーパーバックを手に入れた。

 ジェンキンスという著名なジャーナリストの手になるこの本は、その名のとおり、ブリテン島からローマ人がほぼ撤退した410年からキャメロン首相が登場する2011年まで、約1600年の歴史を簡潔にまとめたものである。何せ1人の王の時代を6ページか7ページで片付けるので、かなり駆け足の感はある。しかし短いながら詳細な描写もあり、さりげないユーモアもある。

 1066年ヘイスティングスの戦いに勝ってイギリス王となったノルマンのウィリアムズ征服王が戦死して葬られるとき、「腫れ上がった腸が破裂して、とてつもない悪臭が参列者の鼻を襲った」。内戦の最中、下院に乗りこんだクロムウェルは、「それ以前、あるいはそれ以降の多くの議員が一度やってみたいと思った演説をやってのけた。すなわち、『この不潔なやろうども、お前たちにはもう我慢できない、とっとと消え失せろ、腐りきったやつらめ』」。学者はこういうことを書かない。

 イギリス史に関する本や論文は数限りなくあるが、専門的な大部の本を読む暇はない。幸いイギリスやアメリカには素人でも読める、しかし質の高い、概説書を書く作家が多い。本書はその一冊だが、毎晩寝る前に少しずつ読むのが楽しい。文章がよいし記述もわかりやすいから、大学の教科書にもいいだろう。

 翻って、日本史の概要をこの本のように英語で簡潔に、読みやすく、楽しめる内容で書いた本はあるだろうか。ユーモアをまじえた、そんな本があったら、きっと海外での日本理解に多大な貢献をすると思う。なにせ、日本史には個性あふれる大名や弱気な天皇などが大勢登場し、イギリス史に負けず劣らずおもしろいのだが。

 




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阿川尚之(あがわ・なおゆき)
慶應義塾大学総合政策学部教授。1951年4月14日、東京で生まれる。慶應義塾大学法学部政治学科中退、米国ジョージタウン大学外交学部、ならびに同大学ロースクール卒業。ソニー株式会社、日米の法律事務所を経て、1999年から現職。2002年から2005年まで、在米日本大使館公使(広報文化担当)。2007年から2009年まで慶應義塾大学総合政策学部長。2009年から2013年まで慶應義塾常任理事。
主たる著書に『アメリカン・ロイヤーの誕生』(中公新書)『海の友情』(中公新書)『憲法で読むアメリカ史』(PHP新書)(ちくま学芸文庫)『横浜の波止場から』(NTT出版)『海洋国家としてのアメリカ:パックスアメリカーナへの道』(千倉書房)(共著)など。
撮影 打田浩一