この時、私がすごいなぁと思うのは、いわゆる黒田家譜、今年のドラマ、最初冒頭申しましたように原作がないと言いましたが、脚本家の方にはその黒田家譜をいろいろコピーしたりして渡しています。

 その黒田家譜というのは何かと言うと、黒田家の歴史を黒田家が編纂した、もちろん江戸時代になってからです。そこに官兵衛のこととか、その子供長政のことが詳しく書かれている。これは貝原益軒という、名前は聞いたことがあると思いますが、黒田藩の儒学者、『養生訓』という本を書いたことでも有名なのですが、その人が編纂主任をやっていますので、結構いろいろ資料を集めて書いていますので、そんなに間違いはないんですね。間違いはないけれども、やっぱり黒田家が書いているということですから、黒田家の傷になるようなことは書いていない。傷というか、ちょっと都合の悪いことは書いていない。

 一例だけ挙げておきますと、先々週(8月17日放映)、官兵衛はキリスト教に入信しました、高山右近の導きで。そのキリスト教徒、キリシタン大名になったのですが、この黒田家譜には官兵衛がキリスト教徒になったということは一言も書いていないですね。

 これも考えてみれば無理のない話で、江戸時代は例の徳川家康が慶長18年、1613年にキリスト教禁止令というのを出しています。ですから江戸時代はキリスト教は禁止されています。だから江戸時代に書かれた本で、我が家の祖である官兵衛様がキリシタンだったということは家譜には書けない、という限界がありますので、その辺は裏を読んでいかないといけないのですが、いずれにしてもこの黒田家譜は比較的信用できると私は読んでいます。

 その黒田家譜にちょっと意外なのですけれども、面白いことが書いてあるのです。

 要するになぜ、毛利よりも織田がいいか、というその証拠として、なんと長篠設楽ヶ原の戦いで織田信長があの戦国最強といわれた武田軍を破った、例の武田勝頼を破った戦いですね。これが書いてあるのです。

 「えっ?」と思ったのはこの長篠設楽ヶ原の戦いというのは、天正3年の5月21日なんですよ。6月に評定が開かれた、何日かは残念ながら書いていないので分かりませんけれども、仮に6月21日だとしても、わずか1ヵ月前の、しかも遠くの三河で繰り広げられたあの長篠設楽ヶ原の戦いで戦国最強といわれた武田軍を信長が破ったという情報を、官兵衛がキャッチしていた。それをみんなの前で披露したものですから、あの小寺政職も「そうよのぉ」という感じで賛成したということになるのです。

 この情報網たるや凄いな。私は補佐役というか軍師の仕事として、やはり情報をキャッチして、その正しい情報の元で殿様に進言して、それで結論を得ていくということだと思うのですが、その情報源が何だったかというのは残念ながらはっきりこの黒田家譜には書いていませんが、それに近い、臭わせるようなことはこの少し前に書かれているのです。今年のドラマでもその辺りは私はチラチラ出してもらっています。

 それは何かというと、姫路の少し北に行った所に広峰神社という神社がありまして、その広峰神社の御師おし、御師というのは神官ですけれども、神社にいつも常駐している神官ではなくて、むしろドサ回りというか地方回りでお札を配って歩くような神官なのです。そういう御師が何人もいます。

 そういう人が多分、西はそれこそ広島辺りまで行ったでしょうし、東は岐阜ぐらいまでは来たと思いますね。そうすると岐阜は当時信長の居城があった所ですから、その岐阜辺りで「信長が武田勝頼を破ったよ」という話は耳にして、それをすぐ官兵衛に伝えていた可能性があると思います。

 そういった意味で言うと、この官兵衛の情報網は、私はやっぱり広峰神社ではないかなと思っているのです。その確たる証拠というのはちょっとないわけですけれども、ただやはり小さい頃から広峰神社の御師たちとは行き来があった、そういった所が生きていたのかな、という気がいたします。

 そうした小寺家中が、織田方につくことを決めました、ということを今度は信長に伝えに行かなければいけない。他の家老たちは信長と言われても、ということでちょっと二の足を踏んでしまっているのです。

 若いけれども、じゃあ官兵衛が行けということになって、官兵衛が信長の所に行きまして、それで我々小寺の人間は、これで信長様からしかるべき大使を一人送り込んでいただければ、信長様の播磨平定に協力いたします、ということで状況を説明し、この武将とこの武将は敵対するけれども、この武将とこの武将は説得すれば味方になるでしょう、ということで作戦をちょっと披露した。

 おそらくその作戦が信長が考えていた播磨平定の作戦と、たぶん見事に一致したのだと思いますね。喜んだ信長が有名な「圧切長谷部」という刀を官兵衛に渡した、という流れになっていきました。

 ただすぐには行けなかったんですね。天正3年という年は信長は確かに長篠設楽ヶ原で武田は破ったけれども、まだあの石山本願寺とは戦っているし、その石山本願寺の指令を受けた越前、今の福井県、ここでは一向一揆が発起していますし、なかなか自らも、あるいは武将の誰か一人でも播磨に送るということがすぐには出来なかった。結局送ることが出来たのは天正5年。

 この時送り込まれたのは秀吉なのですけれども、ただこれはもしかしたらの話なんですけれども、最初から秀吉に白羽の矢が立っていたかは、ちょっと私は疑問符をつけています。というのはなぜかというと、このあと、例の有名な荒木村重が謀反を起こしますね。

 これも伊丹市の人にちょっと言われたことがあるんですが、荒木村重、これまではどうも一人だけ生き残ろうとした卑怯な男だという描かれ方をしていて、これはどうもちょっと、という感じでどうにかなりませんかね? と言われていたのですけれども、今年のドラマでは確かに一人生き延びたということは事実としては避けられませんでしたけれども、まぁいろいろ葛藤があったんだというところは出しました。

 この荒木村重の謀反の理由は、従来は自分の家臣が、この荒木村重の居城というのは摂津の有岡城、これは今の兵庫県になります、伊丹市、ちょうどJRの伊丹駅のところがお城の本丸です。だからJRの駅を降りれば有岡城という荒木村重のお城があった、その本丸に足を踏み出すという場所なのですが。

 その荒木村重が少しずつ、これは摂津の意識支配という言い方をしまして、信長から摂津のことをお前に任せたよ、と言われていて、摂津を平定したあと少しずつ播磨に駒を進めていたんです。ですから当然荒木村重としては自分が播磨攻めの総大将になる、なれると思っていたところ、そうではなかったというのも私は理由の一つと思っています。

 もう一つの理由、これはこれまで通説としていわれてきたのは、その有岡城にいた、その有岡城というのは摂津の国ですから、すぐ近くに石山本願寺があります。で、荒木村重の家臣たちにその石山本願寺の門徒たちですね、一向宗門徒がいて石山本願寺が包囲されて、これは大変だというので密かに兵糧を横流ししていた。それが信長にばれて、信長から呼出がかかった。

 その時から荒木村重の家老クラスが、信長という人は一度疑ったら許すような人ではないので、のこのこ行けば絶対に殺されますよ、というふうに説得されて行くのをやめたんです。

 それで籠城した、というのがこれまでの通説なんですが、私はむしろ本来ならば自分が播磨攻めの総大将になる、なれる、と思っていたところに、遠くから、今の滋賀県ですね、近江から羽柴秀吉がちょうど落下傘みたいに播磨に降り立ってきたので、いやこれはちょっと違うぞ、というので、むしろ羽柴秀吉に対するライバル心みたいなものも荒木村重の謀反の根底にはあったのかなと思っています。

 いずれにしても秀吉が乗り込んで来たのが天正5年、その乗り込んで来るのが10月ですけれども、その少し前に、これもなかなか秀吉の心憎いまでの芸の細かさですね、官兵衛に手紙を出しているんですよ、7月23日付で。

 その手紙の文面に「我らおととの小一郎めとうせん」と書いてあるんですね。あなたは私の弟の小一郎、秀長と同然、兄弟同然ですよ。ということは秀長は自分の弟なので、官兵衛に対して、あなたは俺の弟だと思っている、というそんな手紙を出していて、よく秀吉のことを「人たらしの天才」という言い方をしますけれども、まさに人をたらし込むという芸の細かさというのはすごいなぁと思うのですけれど。

 そうなりますと当然小寺家から誰かを人質に誰かを送らなければいけないわけですけれども、本当ならば小寺政職が自分の子供を送らなければいけない。小寺政職には「いつき」という男の子がいました。だけど小寺政職は、まだ確かに官兵衛の説得で織田方になったけれども、毛利の方がいいかなとちょっとまだ揺れているのです。そこで自分の子供を人質に出してしまえば、もしこのあと織田家を裏切って毛利方につこうとしたら、その子供は殺されてしまうということで、出し渋るわけです。

 出し渋られても官兵衛として困るんで、結局は自分の、その頃は一粒種、一人しかいなかった松寿丸しょうじゅまる、略して松寿とも言っていますが、のちの長政ですね、これを人質に出す。その人質を、これも有名な、今年のドラマでもやりました、竹中半兵衛なんかが命を助けるという、そんな出来事になってまいります。

 そういう状況の下で、いよいよ天正5年の10月、秀吉が播磨に乗り込んで来るわけですが、この時、官兵衛はすごく思い切ったことをしています。自分の居城だった、つまり小寺政職の御着城の支城である姫路城を、そっくりそのまま秀吉に譲り渡して、明け渡してしまう。

 これは当時なかなかそういう例はないです。戦いに負けて仕方なしに降伏して城を差し出すということはありますけれども、戦わずに城を差し出すという例は余り聞いたことがないです。だからそれだけやっぱり官兵衛としては、この秀吉と一緒になって織田家のために戦おうという決意表明でもあったのかな、という気がいたします。

 この頃ちょうど秀吉には竹中半兵衛と軍師もおりました。ですからこの竹中半兵衛と黒田官兵衛という二人の、どちらも兵という字がつきますので秀吉の二兵とかね、秀吉の両兵なんていう言い方をしますが、この二人がそれこそ車の両輪のように播磨平定に邁進いたしました。本当に短期間である程度平定された。

 ところがここでまたどんでん返しがあるのです。三木城の別所長治、この別所長治については面白いエピソードがありまして、それこそ2006年の『功名が辻』の時も、この別所長治三木城攻めをドラマとしてやったのです

 その時に、これは私も全然知らなかったんですけれども、別所長治役をどういう俳優さんがやるかというのは聞かされていなかった。出てきて顔を見て、「あ、しまったな」と思ってしまいました。というのは結構年輩の役者がやっていました。名前はちょっと存じ上げていません。本当は若いんですよ、二十代半ば。

 ですから若い俳優さんでやってもらわなければいけなかったのを、年輩の俳優さんがやっていまして。その夜でしたね、すぐ三木市の教育委員会から私のところへ連絡が来まして、別所長治をなんであんな年輩の役者でやるんだ? ということで叱られてしまいました。その時は、私も気がつきませんでした、というので謝って。

 今年はその苦い思い出がありますので、NHKには別所長治はぜひ若いイケメンの俳優さんでやってくださいね、ということを言っておきまして、今年は無事うまいこと行きました。その別所長治、最初は織田方になっていたのですけれども、毛利方の巻き返しで毛利方になっちゃう。それを秀吉は攻めた。その攻めている最中に、実はもう一つ難問題が発生した。これが例の上月城ですね。上の月と書きます。

 この上月城も抵抗されて黒田官兵衛及び竹中半兵衛の二人の力で落とすことが出来たのです。一度落としているのです。その落としたところに、なんと尼子勝久とその家老というか重臣筆頭、山中鹿之助たちを入れた。これは信長の命令なんです。ちょうど尼子家というのは毛利としょっちゅう戦っていて、一度毛利に負けて滅びるんです。

 ところが山中鹿之助が尼子家再興ということをスローガンにして、元家臣たちを集め、それから尼子の血を引く若い男の人が、京都の東福寺に修行僧をしていた、それを見つけて説得して、尼子家再興の旗頭になってくださいということでお寺を出して、自分たちだけでは毛利と戦う力はありませんので織田信長を後ろ盾に頼んだのです。

 そうしたら信長は「これは毛利との戦いに使えるぞ」ということで、さっそく上月城に入れたんです。恐らく毛利家の当主の毛利輝元、まだ若いです、は、そんなに意識はなかったと思うのですが、その二人の叔父さん、今年のドラマでももうすでに出てきました、吉川元春は先週(8月24日放映)亡くなってしまいましたが、吉川元春と小早川隆景、この二人はご承知の方は多いと思いますが、毛利元就の次男、三男なんですね。長男は毛利隆元で、長男は早くに亡くなってしまいます。

 その子供が輝元、だから毛利元就の孫がその頃の毛利家の当主。それを両サイドでカバーしていたのが吉川家に養子に行った元就次男の吉川元春と、小早川家に養子に行った三男の小早川隆景、この二人の叔父さんが毛利本家を支えていた。吉川の川、小早川の川、両方とも川という字がつくものですから、毛利両川、一両二両の両という字に川という字をせんと読みまして、毛利両川体勢などと言っています。

 だから毛利家は実はこの毛利輝元よりも、吉川、小早川の二人で保っていた。この二人は若い頃、自分のお父さんと一緒に尼子との戦いに何度も出て行って、しかも自分の家臣も失っているし、一族もだいぶ殺されていますので、尼子と聞いただけでこれを許せない。

 それが上月城に入ったという情報を得て、これは軍勢としてはそんなにはいないと思うのですが、五万という軍勢で上月城に攻めかかってきます。結局ちょうどこの頃秀吉としては三木城攻めもしていなければいけないし、上月城も助けに行かなければいけないので、すぐに信長に応援を依頼するんですけれども、信長はちょっと冷たい人で、上月城は見捨てろ、という一言で結局は助けにも行けなかった、ということで、尼子勝久はそこで自害をし、山中鹿之助はまだお家再興の見込みあり、ということで降伏するんです。

 だけど降伏して連行していく途中で毛利の家来が、こいつを生かしておくとまた何をしでかすか分からない、というので殺してしまうのですね。そんなわけで、ここで尼子家も山中家も滅亡ということになるのですが。ただ、山中鹿之助の子供が生き残ります。

 それが先ほどちょっと名前を出した伊丹、今の伊丹市ですけれども、そこで造り酒屋を始め、それが大成功をいたしまして、例の大阪に店を出して豪商の鴻池になるという、ちょっと複雑なというか、面白い現象もあります。山中鹿之助の子孫が鴻池になるのです。

 そのようなわけで結局は上月城は落とされてしまうのですけれども、三木城攻めをやっている最中に官兵衛にはもう一つ難題が持ち上がった、これが先ほど少し話し始めた荒木村重の謀反。すぐ有岡城に行って、官兵衛が荒木村重を説得するのですね、謀反を思いとどまるように。ところがそこで幽閉されてしまうということで1年間幽閉生活を送って膝が曲がってしまうという、ちょっと大変な思いをするわけですが。

 ただこれもよく質問を受けるんですよ。なぜ荒木村重は官兵衛を殺さなかったのかと。

 これは荒木村重に聞いてみないと分からないのですが、私の思うところは、これは黒田家譜にもそのように出て来るので、それが本当のところかなと思うのでけど、小寺政職もこの時荒木村重と一緒に信長に対して反旗を翻そうとした。それを知った官兵衛が小寺政職の御着城に行って説得を始めた。

 そうしたら小寺政職が、荒木村重さえ翻意してくれれば、つまり謀反を取り止めてくれれば、俺も謀反を取り止めるよ、ということで行ってくれということで指示をして、官兵衛はそれをそのまま真に受けて行った。ところが小寺政職の方は面倒くさいので荒木村重に密使を出して、官兵衛が行くからそこで殺してくれ、という秘密指令を出していた。というのが黒田家譜には出てきます。

 おそらくそのあたりも関係していたのではないかと思います。荒木村重としては昔からちょっと顔なじみの官兵衛を、このままお城を出して戻しちゃうと小寺政職に殺される、暗殺される危険がある、ということでむしろ安全な有岡城内に抑留したという、そんなところではないかなと思っています。

 このあたりもなかなか、よく分からないところではあります。今年のドラマでこのあと有岡城の牢番をやっていた加藤剛という武将というか牢番の息子を預かります。その息子が黒田という姓をもらい、黒田一成かずしげという、のちには黒田家の家老になっていく。

 だから相当牢番なんかからはある程度優遇というか、相当援助してもらったのかな、という感じがしています。それから今年のドラマでも少し出しましたけれども、荒木村重の正室の「だし」という女性、今年のドラマでは桐谷美玲という女優さんがやっていましたが、このだしという女性は戦国一の美女という言われ方もしています。相当な美人だったらしいのですが。

 私、桐谷美玲という女優さんはニュースのナレーターとかをやっていたので知っているのですが、当時の美人とはちょっと違うということはNHKには言ったんです。目が真ん丸なんですよね。クリクリして可愛いのですが、当時の美人というのは目が細いんです。だからちょっと違和感はあるな、とは言っていたのですが、まぁそれでも彼女はだし役をうまく演じてくれました。

 そのだしも官兵衛にはいろいろと世話をした、というのは多分事実としてあったのだろうと思います。でもすでにドラマでもやりましたが、その荒木村重とだしとの間に生まれた男の子が有名な絵描き、絵師、岩佐又兵衛になるというのは事実なのです。




owasda_02  小和田哲男(おわだ・てつお)
1944年 静岡市に生まれる 1972年 早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了 現在  静岡大学名誉教授、文学博士専門は日本中世史、特に戦国時代史で、主著『後北条氏研究』『近江浅井氏の研究』のほか、 『小和田哲男著作集』などの研究書の刊行で、戦国時代史研究の第一人者として知られている。 また、NHK総合テレビおよびNHK Eテレの番組などにも出演し、わかりやすい解説には定評がある。 NHK大河ドラマでは、1996年の「秀吉」、2006年の「功名が辻」、2009年の「天地人」、2011年の 「江~姫たちの戦国~」で時代考証をつとめ、2014年の「軍師官兵衛」も担当している。
主な著書
『戦国の群像』(学研新書 2009年)、『歴史ドラマと時代考証』(中経の文庫 2010年)、『お江と戦国武将の妻たち』(角川ソフィア文庫 2010年)、『黒田如水』(ミネルヴァ日本評伝選)(ミネルヴァ書房 2012年)、『戦国の城』(学研M文庫 2013年)、『名軍師ありて、名将あり』(NHK出版 2013年)、『黒田官兵衛 智謀の戦国軍師』(平凡社新書 2013年)、『戦国史を歩んだ道』(ミネルヴァ書房 2014年)