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ビル・ブライソン
『人類が知っていることすべての短い歴史』
/楡井浩一訳(NHK出版)

 

 小学生のころ、夏休みは退屈で困った。することがない。動くと暑い。手持ちの本は大方読んでしまった。昆虫採集なんかまっぴらだ。宿題はしたくない。新学期前の数日が悲惨な状況になるとわかっていて、やる気が出ない。蝉の鳴き声がうるさい。おなかが減った。夕食までまだ時間があるなあ。しょうがないから、何もしないでボーッとしている。怠惰な子供だった。

 大学の教師になった理由の一つに、この夏休みがあった。給料は安くても、夏休みがある。2ヶ月近くのんびりできる。小学生の頃と同じように、持て余すほど時間があれば、本が読めるし、文章も書ける。気ままな旅にも出られるだろう。会社員やらロイヤーやら、時間に追われる生活に疲れた。そう思って、大学教員になった。

 それがどうだ。意に反して教員という職業はむやみと忙しい。夏休みはあるけれど、暇などありはしない。夏休みはまるまる休めると「信じた私が悪かった」。勤め先の大学で学部長を2年、常任理事を4年つとめた最近の6年間は、特に忙しかった。

 仕事ばかりしているのは体に悪いから、週に最低1日は運動をしに出かける。夏は自宅近くの市営プールで泳ぐことにした。200円の入場料を払うと、1時間泳げる。夕方行けば、それほど混んでいない。午後6時を過ぎると、照明が灯ってナイターだ。冷たいシャワーを浴びてプールに飛び込み、400メートルをクロールでさっそうと一気に泳ぎ抜ける。(本当はぜいぜいいいながら、かろうじて浮いている)。

 日暮れ時のプールはいい。段々あたりが暗くなり、プールのまわりの木々の緑が深みを増す。照明が水に反射してきらめく。闇のなかで、プールとその周囲だけが明るくて、青の空間が広がり、男女が思い思いに水中を跳ねたり、浮いたり、進んだり。つばめが水面をかするようにして飛び去る。蝶が一羽、ふわふわっとプールの上を行きすぎる。仰向けに浮くと、都会のなかに空がぽっかり空いて、雲がすべるように東から西へ飛んでゆく。

 ところで、ビル・ブライソンというノンフィクション作家の作品に”A Short History of Nearly Everything”(邦題『人類が知っていることすべての短い歴史』)というのがある。宇宙の誕生から生物の発生、人類の登場までの過程を、そしてそれを発見し研究し理論を立てた個性あふれる科学者たちを、平易なユーモアある文章で描いたすばらしい本である。

 ビル・ブライソンに初めて出会ったのは、90年代のはじめ、ある雑誌から彼の作家としての初期の作品,“The Mother Tongue”(邦題『英語のすべて』)の書評を頼まれたときである。英語の歴史を詳しく記したかなり専門的な本なのだが、わかりやすいし読んで楽しい。そしてためになる。訳もすばらしかった。あんまり面白いから、アメリカへ出張したときに原書を買い求め、こちらも全部読んだ。すっかりこの作家のファンになり、アメリカへ出かけたときに空港の本屋で彼の作品を買ってきては、拾い読みをしている。彼が得意とするジャンルは主として旅行記だが、『人類が知っていることすべての短い歴史』などのような、本格的でいながらわかりやすい歴史の本を書く。

 ブライソンはアメリカの中西部、アイオワ州の出身である。大学を中退してヨーロッパを放浪し、イギリスの精神病院で働き、そこで出会った看護師の女性と結婚した。一時大学教育を終えるためにアメリカへ帰ったけれど、その後長くイギリスに居を定め、新聞社に就職し、独立した作家として文章を書くようになった。アメリカ人であるのに、彼の文章に不思議な落ち着きがあり、なんとも言えないユーモアがあるのは、イギリス人と結婚し、イギリスで長く住んだからだろうか。それとも大学を中退して、余計な知識をつける前に曇りがない目で世の中を見たからだろうか。私がもっとも好きな作家の一人である。たまたま年齢も同じだという。

 『人類が知っていることすべての短い歴史』に話を戻せば、2002年にワシントンの大使館で働くことになってワシントンに戻ったとき、大好きなブライソンの新作が出たと友人から聞いて買ったのが、この本である。本だけでなく、著者自身が読み上げるオーディオ版も求めた。そして車でドライブするたびに、この本を耳で何度も聞いた。ブライソンの声をCDで聞くと、大使館時代のワシントンを思い出す。もう10年も昔のことである。

 ブライソンはこの本の序で、「あなた」という人間が、何十兆、何百兆の原子からできあがっていること。しかも「あなた」という人間が存在するためには過去380億年のあいだ1回の間違いもなく、「あなた」の祖先たちすべてが正しく出会い、正しく生殖を繰り返し、次々に新しい世代を生み出してこなければならなかったこと。にもかかわらず「あなた」は平均で65万時間しかこの世に生存しないことを述べる。

 1日が24時間だから、1年で8760時間。65万時間を8760で割ると、74歳。希望的観測をすればもう少し長く生きていそうな気もするけれど、それより早く死ぬかもしれない。まあ仮に人生65万時間としよう。私の場合なんか、もう55万時間くらい行っちゃっている。残り10万時間しかない。

 最後に市営プールで泳いだのは、入場料の関係で1時間だった。(それ以上入っていると、ふやけるし、入場料をあと100円払わねばならない)。この1時間も、わが人生65万分の1、残り時間の10万分の1だったんだなあ。プールの水の中から雲の流れる空をぼんやり眺めていたら、はかなさと幸福感が同時にジーンと心にしみた。あの日もまた、もう帰ってこない。

 




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阿川尚之(あがわ・なおゆき)
慶應義塾大学総合政策学部教授。1951年4月14日、東京で生まれる。慶應義塾大学法学部政治学科中退、米国ジョージタウン大学外交学部、ならびに同大学ロースクール卒業。ソニー株式会社、日米の法律事務所を経て、1999年から現職。2002年から2005年まで、在米日本大使館公使(広報文化担当)。2007年から2009年まで慶應義塾大学総合政策学部長。2009年から2013年まで慶應義塾常任理事。
主たる著書に『アメリカン・ロイヤーの誕生』(中公新書)『海の友情』(中公新書)『憲法で読むアメリカ史』(PHP新書)(ちくま学芸文庫)『横浜の波止場から』(NTT出版)『海洋国家としてのアメリカ:パックスアメリカーナへの道』(千倉書房)(共著)など。
撮影 打田浩一