もうずいぶん前のことだが、自宅で何気なくテレビをつけたら、BSで蒸気機関車の特集をやっていた。近頃めずらしいのんびりした番組で、SLを撮影した昔のフィルムを延々と映し、マニアらしい人2人が、「ううん、この場所、この角度で上から撮ったデコイチは珍しいですね」「瀬野八で切り離すとき、運転士はちょっと煙を出して、離れていくんですね、たまんないね」などと、普通の人が聞いたら到底理解不能な会話をしている。思わず見入っていると、家内から、「何してるの、早く仕事しなさいよ」と、一喝された。

 広島に伯父夫婦が住んでいて、子供のころ、家族であるいは妹と2人で、毎年夏休みに訪れるのがならいだった。寝台列車に乗って東海道線を西へ下り、翌朝早く広島に到着する。汽車の旅の記憶は、幼少時から体にしみついている。

 前述の「瀬野八」というのは、広島から山陽本線で東へ6つ目の瀬野駅から7つ目の八本松駅までの間、10.6キロの区間のことで、勾配が大変きつい。機関車1台では上り列車を引っ張りきれないので、明治の昔から、後ろに補助機関車(補機)をつけて押していた(現在は貨物列車だけだそうである)。前後2台の蒸気機関車が、罐に石炭を思い切りくべ、ボイラーでつくった高圧の蒸気によってシリンダーを懸命に動かし、煙突から2筋の太い煙を吐き出しながら、あえぎ、あえぎ峠へむかって登る。おお、なんと美しい。なんと雄々しい。機関車の汽笛と蒸気を吐き出す音が、今にも聞こえてくるようだ。

 小学校へ上がる前だったと思う。父に連れられて山陽本線の列車に広島から乗車し、どう頼み込んだのか、2人で最後尾の荷物車に入れてもらった。広島の市街地を離れ、上りにさしかかり、しばらくしてようやく峠を越えると、全力で走りながら後ろに続く補助機関車との連結を切り離す瞬間が近づく。私たちが見つめる、そのすぐ目と鼻の先の連結器が、どういう仕組みか自動的に、がちゃんと外れ、補助機関車は私たちの乗った列車からスーッと離れる。動輪を回し、蒸気を車体の左右から噴きだし、煙突から煙を吐き出しながら、次第に小さくなり、やがて見えなくなった。私は遠ざかる補機をじっと見つめていた。

 思えばあれが、私の初恋の機関車であった。

 


 

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阿川尚之(あがわ・なおゆき)
慶應義塾大学総合政策学部教授。1951年4月14日、東京で生まれる。慶應義塾大学法学部政治学科中退、米国ジョージタウン大学外交学部、ならびに同大学ロースクール卒業。ソニー株式会社、日米の法律事務所を経て、1999年から現職。2002年から2005年まで、在米日本大使館公使(広報文化担当)。2007年から2009年まで慶應義塾大学総合政策学部長。2009年から2013年まで慶應義塾常任理事。
主たる著書に『アメリカン・ロイヤーの誕生』(中公新書)『海の友情』(中公新書)『憲法で読むアメリカ史』(PHP新書)(ちくま学芸文庫)『横浜の波止場から』(NTT出版)『海洋国家としてのアメリカ:パックスアメリカーナへの道』(千倉書房)(共著)など。
撮影 打田浩一