昨年11月イスラエルを訪れた。東京からは直行便がないので、アジア、中東、ヨーロッパの空港を1つ経由せねばならない。10数年前はパリ経由で行ったが、今回は成田からイスタンブールへ12時間かけて飛び、そこで乗り換え、さらに2時間の飛行でテルアビブに着いた。

夜10時半に成田を出発。ぐっすり眠っているうちに、トルコ航空の飛行機はシベリアから中央アジアの広大な大地をよこぎる。眠りから覚めて気がつくと、どうもウクライナの上空にいるらしい。このあたりでマレーシア航空機が撃墜されたのを思い出し、念のためにビデオの画面で搭乗機の現在位置を確かめたらば、迂回してウクライナの西部を北から南へよこぎっているようで安心した。黒海を横断すると、そこはもうトルコ上空だ。イスタンブールの街の灯りが見えはじめる。まだ午前4時、暗いなかをたくさんの自動車が走っている。飛行機は次第に高度を下げ、大きなモスクが見えた。ボスボラス海峡をアジア側からヨーロッパ側へ飛び抜け、ほどなくアタチュルク国際空港へ着陸する。

現代的で巨大なアタチュルク空港は、早暁であるにもかかわらず乗り換えの客でごった返している。この空港からは、イラン、イラク、サウジアラビア、アゼルバイジャン、キプロス、マケドニア、アルバニアなど、日本人にはあまりなじみのない国に路線が延びている。かつてのオスマントルコ帝国の輪郭が浮かび上がる。ラウンジで1時間半ほど待ってからテルアビブ行きのゲートへ向かい、そこからバスで搭乗機へ向かった。

バスに乗りこむと私が荷物を抱えているのを見た青年が一人立ち上がり、席をゆずってくれた。「大丈夫ですよ、すぐだから」と断ったのに、「でもあなた疲れたように見えるから」と重ねて勧める。若い人には私が老人に見えるのだろうなあ。確かに疲れてはいる。まあいいや。好意に甘えて腰をおろした。

この青年、ハシディックと呼ばれるユダヤ教徒の格好をしている。白いシャツに黒いコート、黒いズボン、黒い帽子。もみあげを長く伸ばし、あごひげを生やし、聖書の戒律をすべて厳格に守る敬虔なユダヤ教の宗派の一つである。彼らの祖先は戦前ポーランドやロシアなど主として東ヨーロッパに住んでいて、18世紀に保守的なユダヤ教復興運動を起こした人々なのだが、ナチスの手にかかってその多くが殺された。辛うじて生き残った者の多くがイスラエルへ渡る。イスラエルには世俗的なユダヤ人だけでなく、伝統的なユダヤ教徒も数多くいて、政治に社会に大きな影響を及ぼしている。

青年は3人ほどの仲間と一緒に旅をしており、私は黒ずくめの彼らに囲まれた。青年と再び目があったので、「家に帰るの(Are you going home?)」と尋ねる。「はい、家に帰るんです」。青年はきれいな英語でこう答えた。とてもうれしそうだ。「エルサレムに住んでいるのですか」。伝統的ユダヤ人は聖都エルサレムに多い。彼もその一人であろうか。「いやいやニューヨークに住んでます」。一瞬頭が混乱する。「家に帰るって言わなかった」「はいそうですけれど、住んでいるのはニューヨーク。I am going home to Israel, but I live in New York!」。

青年の言わんとしているのは、つまりこうだ。彼ら信心深いユダヤ教徒にとって、故郷はイスラエルの地である。2000年前この土地から追放されて以来、流浪の民として世界を点々としてきた。今住んでいるのはアメリカだけれども、故郷は決して変わらない。その証拠にユダヤ人は毎年「過ぎ越しの祭り」で祈りを捧げるとき、最後に必ず「来年こそはエルサレムで会おう」と約束しあう。「僕は1年に1回、エルサレムに帰るんだ」と、青年はにこやかに語った。

ハシディックの人口が世界で一番多いのは、イスラエルとニューヨークであるという。イーストリバーを挟んでマンハッタンの対岸にあたるブルックリンに彼らが居住する地区があり、そこへ行けばひげを生やして黒ずくめの服を身につけたハシディックの人々が大勢歩いている。その風景は、おそらく18世紀ポーランド、ワルシャワのユダヤ人ゲットーとそれほど変わらないし、現代のエルサレムの伝統的ユダヤ人居住区とも同じである。祖先の地を追われて以来、迫害にあい続けたユダヤ教徒たちは、海を渡ったアメリカでようやく自分達の信仰も風習も一切変えずに暮らせる場を見つけた。

アメリカ人にとって故郷はもちろんアメリカに決まっている。彼らほど愛国心をすなおに表現する国民は、世界にそれほど多くないだろう。公立の小学校では子供たちが毎朝国旗に対する忠誠を誓う。野球場やフットボールスタジアムで国歌が流れれば、ほぼ全員が起立して胸に手をあて唱和する。国中いたるところに星条旗が掲げられ、国旗をとても大事にする。白人、アジア人、黒人、みなそうである。出身地の州や町への愛情も強い。違う州や町出身の人たちが集まれば、すぐお国自慢が始まる。

しかしそうした現実の故郷とは別に、彼らの多くは心の故郷を持っている。2000年前にイスラエルの地を追われてからずっと故郷をなつかしんだユダヤ系アメリカ人はやや特殊だとしても、その他のアメリカ人も同じだ。新大陸に渡って早くアメリカに同化しようと懸命に努力をしながら、決して祖先の地を忘れなかった。

たとえばアイルランド系アメリカ人がそうである。19世紀、大飢饉で何十万人もの同胞が飢えや病気で死に、辛うじてアメリカへ逃れたこの人たちは、長いあいだ新大陸で差別され続けた。そうした苦難の歴史が、かえって時が経つにつれかえって故国への憧憬を増すのだろうか。アメリカ在住時代の私の知り合いにも、休みに家族でアイルランドへ旅をし、祖先が住んでいた貧しい村を訪れ、教会で過去帳をめくって家系を確かめる人たちが、何組もいた。

戦後すぐ上演され映画にもなったミュージカルに、『フィニアンの虹』という作品がある。アイルランドからアメリカへ渡った親子の物語であるが、そのなかで故郷アイルランドの村をなつかしんで、娘がこんな歌を歌う。

「グロッカ・モラの様子はどうかしら。あの小川は今でも勢いよく流れているだろうか。キリベグズ キルケリー キルデアを通って、ドニーコーブに注ぎ込むまで。グロッカ・モラの様子はどうかしら。あの柳の木は今でも風に揺れているだろうか。あの男の子は目を輝かせ、口笛を吹いてやってくるかしら。私がいないのでがっかりして、ぼんやり帰って行くのだろうか」

ケルトの地名をちりばめたこの歌を聴いて、アイルランド系アメリカ人は、祖先の地を心に浮かべるのだろう。アイルランド系のケネディ大統領は、この曲をとても好んだという。

https://www.youtube.com/watch?v=OUu7_jq3ZB8

一方、アルメニア系アメリカ人の作家サローヤンは、オスマントルコ帝国治下の迫害を逃れカリフォルニアに定住したアルメニア人同胞の姿を、繰り返し描いた。サローヤン自身はフレズノ生まれだったけれど、周りの大人たちはみなアメリカに渡ってきた一世の移民であった。祖国へ戻れぬことを嘆き、祖国を思い、祖国と同じように乾燥したカリフォルニアの中央盆地で暮らしていた。短編「家族に伝わる狂気」のなかでは、叔父の一人ヴォロタンが、新大陸にやってきて新しい種類の狂気にとりつかれる様子が描かれている。

「我々はフレズノにいたけれど、どこにもいなかった。家族の誰かが死んで、ここに葬られ永久に留まるまで、我々はここにいない」

そう信じたヴォロタンは、一族の一人が最初に死ぬのを心待ちにするようになる。だれかれとなく周りの人に体調をたずね、病人がいると聞くと死にそうかどうか確かめるため見舞いに行く。そして「おまえが私たちを救ってくれるのだね、死ぬのはこわくないから安心しろ、我々もあとから行くから」と病人をはげます。病人は怒って、「ただ風邪を引いただけだ、俺はまだどこにも行かない。お前こそ出て行け」と叫ぶ。けれどもある朝、歳老いたヴァルジャンが床のなかで眠っているうちに亡くなったのがみつかると、ヴォロタンは新大陸で一族最初の死が実現したといって大喜びした。葬式の費用にと10ドル寄付し、葬儀のときには「とうとう我々はこの地にいる。息ができる。ヴァルジャンが我らを救った」という弔辞まで述べた。それを機にヴォロタンの狂気はすっかり消え、やがて彼も亡くなり、アルメニア人の共同墓地「アララット」へ葬られた。

戦時中のフレズノをモデルにした架空の町の様子を描いたサローヤンの名作『ヒューマン・コメディー』には、冒頭主人公ホーマーのまだ幼い弟ユリシーズが、家の裏で長い貨物列車の通過に遭遇する場面がある。ゆっくり走る貨物列車に向かってユリシーズが手を振ると、最後尾の貨車に無賃乗車する黒人の男が振りかえしてくれる。「おじさん、どこへ行くの」とユリシーズが叫ぶと、男は大きな声で、「ぼうや、故郷に帰るんだよ。遠い故郷へね」と返した。この小説の主人公ホーマーはギリシャの叙事詩人ホメロスから取っているし、ユリシーズはオデッセイのローマ読みである。作品の主題は故郷へ帰ることなのだと、解説にあった。

イスラエル滞在の最終日、空港へ向かう前に、私はエルサレムのイスラエル博物館を訪れた。広大な敷地の一角に、有名な「死海文書」を展示する特別の展示館がある。この文書は1947年、子ヤギを探していたベドウィン族の少年が死海のほとりの洞窟内で最初に見つけたものである。砂漠のなかに隠遁し、ひたすら戒律にしたがって神の道を守り、終末のときの戦闘に備えるクムランというユダヤ教団が、紀元前60年ごろローマに対する叛乱のさなかに壺に入れて洞窟に隠したというヘブライ語の聖典が、20世紀なかばになって発見されたのは奇跡に近い。初めて見た死海文書は、まるで印刷したような正確さと几帳面さでヘブライ語のアルファベットが一つ一つ羊皮紙へ記されている。今記されたばかりのように、筆跡は鮮明だ。しかもこの現存最古のヘブライ語聖書を、現代のイスラエル人やヘブライ語を学んだユダヤ人は、そのまま読んで概ね理解できるのだそうだ。もちろん私には読めないが、この箇所が旧約聖書「イザヤ書」のこの部分にあたると、例示がされている。死海文書を通じて、ユダヤ人は2000年前の祖先と同じ言葉で話ができる。祖国が滅び、離散する前に戻れる。

強い印象を受けて死海文書の展示館から外へ出ると、降っていた雨があがって低い空に三日月がかかっていた。イスタンブールの空港で言葉を交わしたユダヤ系アメリカ人の青年は、今どうしているだろう。彼だけではなく、アメリカ人はみな、いや我々もまたみんな、故郷を探し続けているのかもしれない。

 


 

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阿川尚之(あがわ・なおゆき)
慶應義塾大学総合政策学部教授。1951年4月14日、東京で生まれる。慶應義塾大学法学部政治学科中退、米国ジョージタウン大学外交学部、ならびに同大学ロースクール卒業。ソニー株式会社、日米の法律事務所を経て、1999年から現職。2002年から2005年まで、在米日本大使館公使(広報文化担当)。2007年から2009年まで慶應義塾大学総合政策学部長。2009年から2013年まで慶應義塾常任理事。
主たる著書に『アメリカン・ロイヤーの誕生』(中公新書)『海の友情』(中公新書)『憲法で読むアメリカ史』(PHP新書)(ちくま学芸文庫)『横浜の波止場から』(NTT出版)『海洋国家としてのアメリカ:パックスアメリカーナへの道』(千倉書房)(共著)など。
撮影 打田浩一