2月上旬、アメリカ東海岸の都市をいくつか訪れた。主として列車で回ったけれど、どこへ行っても大変な寒さである。バス、地下鉄など公共交通機関はあてにならず、戸外で待っていると凍傷にかかるおそれさえある。荷物も重いし、しかたがないからどこでもタクシーを利用した。
アメリカのタクシー運転手は実に多様だ。あらゆる人種、あらゆる国の出身者がいる。興味があるので、必ず出身地をたずねることにしている。もちろん地元生まれ地元育ちの人だっているけれど、思いがけない国や地域から来たドライバーにしばしば出会う。
雪に埋もれたケンブリッジの友人宅まで来てボストンの駅まで送ってくれた運転手は、たずねるとモロッコ出身のドライバーである。「おまえ行ったことあるか」と訊かれた。残念ながらない。ないけれども、「カサブランカ、フェズ、マラケシュなど、歴史的な町、美しい街のことを聞いている」。そう答えたら、運転手氏は急に饒舌となり、「そうだ、モロッコは美しい国だ。いつか訪れるといい。食べ物はおいしいし、歴史が古い。第一、我々には王様がいる。王様のもとで国は安定している。アラブの春のあとでも、チュニジア、リビア、エジプトのような混乱はなかった」。もう10年もアメリカにいるというのに、お国自慢ですこぶる機嫌がよかった。
ボストンから列車に乗って到着したニューヘイブンの駅で待っていたのは、ドミニカ出身の女性運転手である。ホテルに着くまで、カーステレオの音量を一杯に上げ、ラテン音楽を聴いている。聴くだけでなく、女性歌手の歌声に合わせ自ら大声で歌う。「アモール」という言葉だけわかる。あんまり乗客には興味がなさそうだった。、
この町での滞在最後の日にイェール大学から駅まで乗った車もヒスパニック系の運転手で、エルサルバドルの出身だという。「スペイン語は知らないなあ、べサメムーチョくらいだ」と言ったら、「君、それはいっぱいキスしてって意味だよ」と笑いながら言って、「いっぱいキスして」と自ら歌い出した。ラテン系の人は音楽が好きだ。
「ところで、あんたはどこから来たの」。エルサルバドル君は、バックミラーで私の顔を見ながら尋ねる。「どこだと思う。あててごらん」。「ううん、アジアの人らしいから、そう中国人かな」。違う。「じゃあ、韓国人」。違う。「じゃあ、日本人だね」。一昔前までは、最初に日本人かと聞かれたものだが、近頃はほぼこの順番だ。日本人の存在感が薄くなったというより、中国や韓国の人が頑張っているのだと思おう。もっとも私はしばしば中国人にまで中国人だと思われ中国語で話しかけられるので、あてにならないけれども。
「でも日本人は中国人と違うよ」。エルサルバドル君がとってつけたように言う。「そりゃまたなぜ」「日本人の客は白人の客と同様、我々と普通にしゃべるのさ。でも中国人は運転手にまったく興味を示さない。行き先だけ告げたら仲間同士にぎやかに話し続け、着いたら金を払って降りるだけ。一言も会話がないね」。フーンなるほど。
同じ日の朝、ホテルから大学まで乗った車はバングラデシュ人の運転手だった。「お国はこのごろ経済が調子いいらしいね。繊維産業が発達して」と水を向けると、「ううん、まあ経済は少しよくなったけれど、どうもわが故国は政治がだめでねえ」と運転手氏。「選挙で政権を選択しても、ちっとも民主的にならない」と言ってため息をつく。「アメリカは好きかい」「いや、好きだよ。働けば働いただけ報われるしね。最近弟とこの町で食料品店を開いたんだ。ほら、そこさ」と通りの向こう側を指さした。たまたま開いたばかりの店の前を通っていた。バングラデシュ氏、嬉しそうである。
ニューヘイブンからワシントンまでは特急列車で行って、日の落ちたユニオステーションから友人宅までまたタクシーに乗った。肌の黒いドライバーは、アメリカの全米公共ラジオ放送(NPR)にダイアルを合わせ、一心に聴いている。前日、オバマ大統領がイスラム国への武力行使権限を議会に求めると発表し、政権の起草した法案の内容が明らかになった。軍は議会の承認なしで既にイスラム国への爆撃を開始しており、そのことについて議会での批判が強かった。その間イスラム国の残虐な行いが続き、捕虜になっていた若いアメリカ人女性の死が確認された日に、大統領は3年間の武力行使権限を求めたのである。
ラジオからは、かつてNBCやCNNでも活躍したベテランのニューズキャスター、ジュディー・ウッドラフが、議員へのインタビューを交えながら報じている。大統領の与党である民主党のある議員は、慎重な反応を示していた。イスラム国との戦いに、米地上軍が投入されるのではないかと恐れている。もっと法案は吟味し、限定的な文言にすべきだ。イラク戦争の過ちは繰り返してはならない。そう述べる。共和党の議員たちが、もっと広範な権限を与えるべきだと主張するのと、対照的である。
「いつもこの番組聴いているの」。報道が一段落したところで、もの静かな運転手に声をかけた。「いつもじゃあないけれど、ときどき聴いている」。NPRを聴く人には、通俗的なテレビ番組を嫌うインテリが多い。この人はどこから来たのだろう。尋ねたら思ったとおり、「エチオピアだ」という答えが返ってきた。
アフリカからやってきた肌の黒い人たちのなかでも、エチオピア人はちょっと感じが違う。スラッとしていて顔の彫りが深く、男性はハンサム、女性は美人が多い。われわれの年代であれば、東京オリンピックのマラソンで優勝したアベベ選手を思い出すであろう。首都ワシントン地域にはこの国の出身者が特に多く(エチオピア系全人口の約半分)、ここ20年ほどでその存在感が急速に増した。あっという間に、町中のパーキング施設やホテルで優勢な勢力になっている。管理職につく人も増え、病院の看護師や技師にも目立つ。
「エチオピアの岩の教会はすごいねえ。世界遺産に指定されているんだってねえ」と水を向けると、モロッコ人の運転手と同様、この人もお国自慢を始めた。「昨年フランスの考古学者チームが13世紀に建造された岩の教会を調査したのだけれど、どうやって岩盤をくりぬいてあんな教会を建立したのか、結局わからなかったって聞いたよ」。祖先の残した巨大ななぞの建築物について、いかにも誇らしげだ。
「いいかい、エチオピア人はアフリカ大陸で唯一独自の宗教(古いかたちのキリスト教)、独自のアルファベットをもつ、歴史の古い国なんだ。そのせいで周辺の国々、特にイスラム教徒からは目の敵にされてきた。たとえばサウジアラビアは何億ドルもの金を費やして、エチオピアをつぶそうとしたが、うまくいかなかった。リビアもそう。エジプトもそう」。そういえば、ムッソリーニもエチオピアには手を焼いたっけ。
「昔ハイレセラシエって皇帝がいたねえ。アメリカに住むエチオピア人は、軍部のクーデターで帝政が廃されて渡ってきた人が多いんでしょ」。「そうなんだ。それ以来、我々はアメリカでがんばってきた。大学で教えているエチオピア人が、今ではもう2000人もいるって、知っているかい」。真義のほどはわからないが、アメリカ全土のエチオピア系人口が約50万人だから、悪くない数字だ。最近の移民グループのなかで、彼らの活躍は目立つ。戦後さまざまな動乱、革命、戦争を逃れ、キューバ、ハンガリー、韓国、ベトナムなどから難民が大勢アメリカへ渡った。彼らは短期間のうちにアメリカ社会で地歩を固めたが、エチオピア人がそれに続くかもしれない。
「エチオピアの政治は、大分落ち着いてきたよ。それでもアメリカに渡りたがる同国人は今も多い。こちらに来ても仕事を見つけるのは、昔よりずっと難しいのだけれどねえ。エチオピアでけっこういい生活をしている連中までアメリカに来たがるんだ」。ドライバー氏は、淡々と語った。
1975年に初めて米本土へ到着して以来、私自身何度もアメリカに住み、アメリカで働いて、さまざまなタクシードライバーに出会った。ガーナ人、カメルーン人、ナイジェリア人、ケニア人、ソマリア人、インド人、パキスタン人、カンボジア人、韓国人。
70年代にアメリカへ留学し、そのまま住み着いてタクシーを運転する日本人。ニューヨークの空港から乗るとソ連から到着したばかりでマンハッタンの道路を知らない、目的地までどうやって行くのか教えてくれと言われたロシア系ユダヤ人の運転手。大地震で親戚に何人も死者が出たという、ニューヨーク近郊の住宅地ホワイトプレーンに多いフランス語で話すハイチ人ドライバーの一人。
ダイヤモンドの取引で巨額の取引をしていたが、ある事業に失敗して一文なしになりタクシーを運転しているという、どこまで本当のことを言っているのかわからない、謎めいた白人男性。自分の子供たちが英語ばかり話し、祖先のことばを話さなくなったと嘆く、ポーランド人運転手。そしてイスラム革命によりシャーの政権が転覆してアメリカへ逃れ、イラン・イラク戦争を戦うかつての部下を心配する元イラン海軍提督の運転手。
それぞれの運転手に故郷があり、それぞれのドライバーにアメリカへ渡った理由があった。
アメリカでタクシーに乗ったら運転手と話そう。今まで知らなかったアメリカがそこにある。アメリカを通じて世界が見える。