そのあともうすでに大河ドラマではやりましたが、天正13年の四国攻め。ちょうどこの頃からもう毛利は秀吉の傘下に入って来ます。で、いよいよちょうどこの間、先週(8月24日放映)から始まりました九州攻めですけどね。九州攻めで秀吉の九州上陸は天正15年ですけれども、1年前、天正14年から官兵衛が乗り込んで行く。

 私はこれを「官兵衛露払い」という言い方をします。要するに来年秀吉様が大群を率いて、薩摩の島津を討ちにやって来る。その時には戦わずに頭を下げてくれ、そうすれば本領安堵されますよ、という言い方をした。

 当時、九州北部の武将たち、九州というのは名前の通り国が9つありましたので、その9ヵ国を三人の有力武将たちが分け持っていた。一番強いかなと思うのはやはり薩摩の島津ですね。薩摩、大隅、日向の方や肥後の一部まで持っています。一方、西九州代表が龍造寺隆信、これもすごい武将でして一代で大大名になっている。

 そして、東九州代表が大友宗麟。だけど大友宗麟は薩摩の島津と戦って最初にちょっと負けてしまうのですね。有名な耳川の戦というのがあるのですけれども、これで負けて没落を始める。そのあと龍造寺隆信も沖田畷おきたなわての戦いで負けて、やっぱり没落していく。実際この沖田畷の戦いでは龍造寺隆信、大将自ら出陣していながらそこで首を取られちゃう。

 戦国大名当主が戦いのまさに現場で首を取られたというのは、私の知るところこの龍造寺隆信と今川義元しかいないのではないかなと思っています。その今川義元が桶狭間で討たれたのと同じように、それで今川家がだんだん衰退していったのと同じように、龍造寺家もそこで衰退していくんですが、ただ龍造寺の場合は全く滅びてしまったわけではない。

 軍師として鍋島直茂という人がいましてね、これが秀吉の指示で龍造寺の後釜に座る。だから近世大名としては龍造寺は生き残れませんでしたが、その家臣たちは全部鍋島があとを引き継ぐ形になっていきます。

 そのあたりのいきさつがいろいろ複雑で、有名な「鍋島化け猫騒動」もあるわけですけれども、いずれにしても九州三強が、二つが弱まり、いわゆる島津一人勝ちという状況になってきます。その島津一人勝ちの状況で、これはまずいぞ、というのがやっぱり秀吉の思いなんですね。

 秀吉は天正13年に関白になりまして、関白としての権限で島津が一人勝ちする状況を何とか抑えようということで、ちょうど大友宗麟に泣きつかれたというのも一つの大きな理由ですが、いわゆる今年のドラマでも惣無事という言葉で出しましたけれども、関白としての権限で戦い合っている大名に停戦を命じる、その停戦に応じない方を関白としての権限で、天皇の名代として討ちに行くぞということで九州攻めが始まるわけですね。

 だから九州北部の小さな大名たちみんな、元々は例えば大友宗麟の家臣だった者も、島津の力が強くなったのに従って、今度は島津の家臣になっていたのですけれども、今度秀吉が来るぞ、上が大友であろうが島津であろうが豊臣であろうが、今まで自分が支配していた土地をそのまま支配出来るならば、別に上が誰に変わろうとかまわないね、という話でみんな大体本領安堵の話に飛びついて来ます。

 いよいよ翌、天正15年、秀吉が乗り込んで来て、大体みんな抵抗なく頭を下げるわけですけれども若干例外がありまして、今は福岡県朝倉市という市ですが、甘木といいましても伊豆の天城ではなくて、甘いという字に樹木の木と書きます。その甘木で秋月種実という有名な武将がいまして、彼が抵抗をするわけですけれど、最終的にはその抵抗もダメで、有名な、お茶をやっている方はご存知かと思います「天下三肩衝てんかさんかたつき」なんていう肩衝茶入れの楢柴ならしば)/rp>というのを差し出して、命を助けられるという状況が出てきます。

 これが天正15年、6月の段階で九州平定が終わって、それですぐ大河ドラマでもこれからやりますけれどもバテレン追放令というのを出すんですね。秀吉もおそらく九州へ自ら乗り込むまではキリスト教徒の結束力の強さというのは、そんなに意識していなかったと思います。だけど実際に九州に足を踏み込んでみて、キリシタン人口が多いということにまずビックリし、しかもその結束力が強い、宗教によって結束しているというその結束力が、ちょうど信長が苦しめられた一向宗、一向一揆ですね、それと多分だぶって見えたと思います。このままではちょっとまずいぞ、ということでバテレン追放令を九州にいたときに出しています。

 ですからこれで例の高山右近は信仰を取るか、大名を取るかということを迫られて、信仰を取るということで大名の地位を捨てますが、官兵衛はそのまま大名の地位に残る。だけど信仰は捨てない。よく黒田官兵衛の小説なんかではバテレン追放令が出たので、官兵衛はもうキリスト教徒をやめたと書いてある本が多いのですが、それは間違いです。

 その後も例のローマ字印などを出していますし、これは日本側文献ではないのですが、ヨーロッパの資料で官兵衛が亡くなった時に、慶長9年ですけれども博多の教会で盛大な葬儀が行われた、というのが出て来ます。ですから私は官兵衛、表向きは秀吉からの命令なのでそんな大々的にキリシタン大名だということは言わないけれども、内々信仰としてはキリシタンだったというように思っています。

 九州攻めが終わって、その後中津に入って行くわけですけれども、その頃から、例の宇都宮重房という、いわゆる豊前一揆にちょっと悩まされるわけですが、それはちょっと後で触れたいと思います。官兵衛の場合そのあと天正18年の小田原攻めにも従軍して行きまして、秀吉、21万とも22万ともいう大軍で小田原城を攻めるんですけれども、なかなか落ちない。結局最後官兵衛が自ら太刀を置いて、単身乗り込んで行く。

 これは今年の大河ドラマのオープニングのシーンでやりました。おのおの方、命を粗末になさるな、って叫びながら乗り込んで行く。これは実際にあった話なのです。秀吉の命令だったのか、官兵衛の意思で単身乗り込んで行ったのかっていうのはちょっと分からないのですが、官兵衛が説得に赴いたことは確かです。

 小田原城に行かれた方も多いと思いますが、今ある小田原城だけではなくて、それこそ山の方に総構そうがまえという大外郭土塁とも言っていますが、延々と9キロに渡って、それこそ万里の長城みたいな城構えをしています。ですから21万とも22万ともいう大軍を動員しながら、なかなか秀吉も攻め込めなかった。それを見た官兵衛が説得に行きましょう、ということで行って、おそらく当主は北条氏直というまだ若い当主なんですが、お父さんの方ね、北条氏政がまだ実権を握っています。

 氏政は若い頃、お父さんの氏康と一緒に、上杉謙信が小田原城を攻めて来た時に小田原城に籠城して、上杉謙信軍を撃退しているのです。そのあと武田信玄も同じように大軍で小田原城を包囲するんですが、やはり籠城して撃退している。たぶん多くの方は籠城したらもう負けじゃないの? と思うかも知れませんが、これは秀吉が出て来てからなんですね。

 秀吉以前の城攻めは、むしろ籠城して、籠城した方が勝ったというケースも多いのです。だからこの場合も氏政の方は、お父さんの方は、自分の若い時の経験から、あの戦国を代表する上杉謙信、武田信玄をこの小田原城で撃退したんだぞ、ということで、秀吉が来ようが大丈夫だ、とそんな意識でいた。

 そのあたりを多分官兵衛が説得に当たったんだと思います。上杉謙信や武田信玄の頃の軍勢と、秀吉様の軍勢は違うんですよ、要するに上杉謙信や武田信玄の頃はまだ兵の未分離ですから、動員されてきた兵というのはほとんどが百姓です。だから農繁期になるとやはり兵を戻さなくてはならない。ずっと城攻めなんて出来ない。

 だけど秀吉軍は先ほどの三木城攻めが1年10ヵ月かかったと言ったように、1年2年大丈夫なんです。だからこの時官兵衛はおそらく、多分脅し文句で使ったんでしょうね。何年でも包囲しますよ。氏政はそんなのはウソだ、みたいに思っていたかもしれませんが、氏直の方は時代の変化、秀吉の軍団のいわゆる常備軍が生まれているというのを知らされて、わかった、ということで開城に応じた、というように思います。

 これがいちばん官兵衛らしい戦い方です。戦わないで勝つ、血を流さないで勝つ。そのいわゆる孫子の兵法で、戦わないで勝つのが一番いい勝ち方だというのを実践しようとしたのが、私は官兵衛と思っていますので、これは絶対に外せないということでオープニングのシーンでも取り上げてもらいました。

 さて、この九州攻めのあとに戻ります。天正15年、九州攻めのあと、秀吉が九州仕置といいまして、九州における大名の再配置を行います。この時官兵衛に対しては論功行賞として豊前六郡、今の福岡県から大分県にかけての地域をもらいます。石高12万石。12万石、あの官兵衛の働きにしては少な過ぎやしないかという声が上がっていますね。確かにそうなのです。

 小早川隆景なんかは筑前・筑後で50万石、それからそんなに働きがなかった佐々成政さっさなりまさあたりも肥後で、肥後一国は約50万石ですから、50万石もらっているんですよ。官兵衛はあんな働きをしたのにたった12万石かというので、ちょっと冷遇されて来たんじゃないかという言われ方もありますね。その側面もあるかもしれない。要するにあまりにも官兵衛の作戦が図に当たるものですから、秀吉も確かに官兵衛にオンブに抱っこだったのですけれども、このままあいつが力を持つようになったら俺に代わるかもしれないという危機感を持ったかもしれない。だから出来るだけ石高は抑えたという可能性はあります。

 それともう一つは、それまでの官兵衛の石高は播磨で4万石なんですね。ということは12万石というのは3倍、先ほど名前を出しました小早川隆景や佐々成政もその直前を見ると、どちらも15、6万石はもらっているんですね。だから3倍だと50万石になるということで、この時の秀吉の論功行賞基準は元の石高の3倍といえば、そんなに冷遇とも言えないのかなという気はしますけれども。

 ただいずれにしても、権と禄のバランス、これはこのあと家康がちゃんと真似てますね。家康は自分の腹心、まさに参謀といっていい本多正信に石高はたった2万石しか与えていない。徳川四天王などと言われる井伊直政、これは小田原攻めのあと12万石もらって、あるいは本多忠勝、榊原康政、いずれも10万石もらっているんですが、本多正信は2万石。これはやっぱり権と禄のバランスという。

 これはその後の徳川幕藩体制も規定しています。いわゆる外様大名は石高は沢山与えるけれども、幕政にはタッチさせない、権限は持たせないという、そういう仕掛けというか仕組みの元にもなっているので、この時の秀吉のやり方というのは多分それも意識していた可能性があります。

 この時与えられた豊前六郡の中に宇都宮重房の所領が含まれていた。この宇都宮重房の所領、今は福岡県築上郡築上町で城井谷きいだにという言い方をします。城という字に井戸の井。ですから宇都宮市城井市ともいいます。その城井谷になんと鎌倉時代からもう根を下ろしていた。

 宇都宮というと例の栃木県庁所在地の宇都宮。あそこは宇都宮氏は本家はそのまま戦国大名として残ったのですが、分家が頼朝の時代に早く九州に入って、その城井谷を支配して。もうこの頃までで、秀吉の時代までで約400年君臨しているわけです。ですからこの宇都宮重房、上が大友になろうと島津になろうと豊臣になろうと、自分がそれまで先祖代々受け継いで来た土地を本領安堵されるなのならばそれでいいと思っていた。

 今は我々は一生懸命という、一つに生きる命を懸けると書いてしまいますが、本当はあれは一所懸命なのです。一つの所に命を懸ける、先祖伝来の土地を子孫に繋げるために命を懸ける、戦いにも出て行く、あるいは恩賞をもらうために、土地をもらうために命をかける、その一所懸命、その命を懸ける土地を本来ならば本領安堵で官兵衛の約束で許されるはずだったのが、たぶんこれは私は秀吉の心変わりだと思います。

 本領安堵でいいよと言っておいたのだけども、蓋を開けて、九州平定が終わった段階で、あの約束はなしにしよう。宇都宮重房、お前は伊予へ移れ。今の四国の愛媛ですね。あるいは一説には筑後、筑前、今の福岡へ移れ、と。それでは約束が違うと一揆を起こしたのがこの宇都宮重房なのです。

 この宇都宮重房をどうするかということに関しては、これから大河ドラマで放送されますので、この先をお話してしまいますと、あとが面白くなくなってしまうと思いますので、ここで留めておきます。ただ少しだけお話をしておきますと、息子の長政は城井谷を攻めるんです。だけど負けてしまいます。

 そのあと仲直りをして結局、謀殺されるわけですけれども。そういうことで官兵衛自身はなんとか危機を乗り切る。ちょうど同じように一揆を起こされた肥後の佐々成政は秀吉に呼び出されて、途中で切腹を命じられています。

 だからこの豊前一揆の対応如何では、あれだけ秀吉の天下取りに力を与えて来た官兵衛であろうとも、もしかしたら切腹させられたかもしれない。それだけの危機的な状況というのをなんとか乗り越えて行くんですが、たぶんそんなこともありながら、だんだん秀吉との距離感というのが出来て行ったのでしょうね。おそらく今年のドラマでは、このあと官兵衛と石田三成との確執が出てまいります。

 いまだから言えるのですが2009年の『天地人』の時、この年は直江兼続が主人公で、そのいわゆる盟友として石田三成を出しました。しかも石田三成、小栗旬という俳優さんがやってくれましたので人気が出まして、石田三成ファンが相当増えたのですが、その年、静岡の飲み屋さんで飲んでいたら、一人の酔っぱらいが近づいて来て、「今年の家康は何ですか」と。

 たしかに松方弘樹さんが家康を悪役っぽく演じたものですから、いかにも石田三成は正義のようで、ちょっと絡まれた経験があるんですが、今年はちょっと石田三成ファンから石を投げられそうな、そんな心配をしておりますけれど。

 いずれにしてもこの三成と官兵衛の確執が、官兵衛の息子の長政と石田三成の確執になり、それが関ヶ原の戦いでははっきり東西に分かれるという、そんな図式にもなって行きますので、そのあたりはドラマの方を見ていただければと思います。

 さて最後若干時間がせまってまいりました。終わりにというところへ入ってまいります。大河ドラマ、今年は軍師官兵衛ということで、戦国時代というのはほとんど、どうしても西の方の舞台になることが多いもので、何とかNHKにも私は「やっぱり東海とか関東とか、そっちの方で大河ドラマの主人公を何かやってくださいよ」とは言っているんですけれど。

 まぁ近いうちに出来たら北条五代くらいはやって欲しいなぁというふうには訴え続けてはいるんですけど。なかなか今川義元とかだとちょっと難しいかなという思いはありますが。ただいろいろなところで、それこそ町起こし的に候補が上がってきていますので、なかなか予断は許さないかなというように思っております。

 ちょうど時間がまいりました。どうも今日は長時間ご静聴ありがとうございました。

 


 

owasda_02  小和田哲男(おわだ・てつお)
1944年 静岡市に生まれる 1972年 早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了 現在  静岡大学名誉教授、文学博士専門は日本中世史、特に戦国時代史で、主著『後北条氏研究』『近江浅井氏の研究』のほか、 『小和田哲男著作集』などの研究書の刊行で、戦国時代史研究の第一人者として知られている。 また、NHK総合テレビおよびNHK Eテレの番組などにも出演し、わかりやすい解説には定評がある。 NHK大河ドラマでは、1996年の「秀吉」、2006年の「功名が辻」、2009年の「天地人」、2011年の 「江~姫たちの戦国~」で時代考証をつとめ、2014年の「軍師官兵衛」も担当している。
主な著書
『戦国の群像』(学研新書 2009年)、『歴史ドラマと時代考証』(中経の文庫 2010年)、『お江と戦国武将の妻たち』(角川ソフィア文庫 2010年)、『黒田如水』(ミネルヴァ日本評伝選)(ミネルヴァ書房 2012年)、『戦国の城』(学研M文庫 2013年)、『名軍師ありて、名将あり』(NHK出版 2013年)、『黒田官兵衛 智謀の戦国軍師』(平凡社新書 2013年)、『戦国史を歩んだ道』(ミネルヴァ書房 2014年)