さて、一応三木城攻めも一段落し、荒木村重討伐もなって、それで播磨そして但馬が平定されて、二カ国が秀吉の所領になりました。その時に官兵衛にも一万石与えられました。大名の仲間入りをする、ということになってきます。

 そういう中で、もう今年ドラマではすでにやりました例の備中高松城の水攻めに入っていくのですが、その前に実はもう一つ大きな戦いがあった、例の因幡鳥取城攻めです。今年のドラマでは飛ばしちゃったんですね。鳥取市の教育委員会からはちょっとやはり私のところへ文句がありました。なぜちゃんと取り上げてくれないんだというのですけども、これは時間の問題でしょうがないんだなと思うのですが。

 ただ私、鳥取城攻めに関しては少し補足しておきたいなという点があります。というのは秀吉という人は自分がそれまでやってきたことを結構振り返りながら、反省点を洗い出している。例えばこの因幡鳥取城攻めにあたって、何を反省材料にしたかというと、その直前の三木城攻めの有様。三木城攻めはなんとなんと1年10ヵ月かかります。

 なぜその1年10ヵ月と長くかかったかということを考えた時に、城攻めを始めるに当たって、事前にちゃんと手を打っていなかった。要するに三木城の別所長治が事前に兵糧をどんどんどんどん三木城に搬入して行くことを阻止していなかった、見過ごしていた。これが長引いた原因だということで、次の鳥取城攻めに関しては二つの手を打っています。

 これはやっぱり秀吉のすごさと合わせて、多分官兵衛の入れ知恵もあったと思うのですが、いきなり鳥取城を攻めないのです。まずは若狭、今の福井県ですけれども、の方から商人を因幡に送り込んで米の買い占めをさせる。多分当時の米価の二倍、三倍で買っていたのでしょう。そうすると百姓たちはお金になるというので喜んで売ってしまった。

 そのあと有名な吉川経家きっかわつねいえという、これも武将としては私は優れた武将で好きな武将なのですが、入って来る。で、兵糧米を集めようとしたら思いの外集まらなかった。もうすでに売ってしまっていたから。これが一つ。

 それからいきなり鳥取城を包囲するのではなくて、秀吉軍が因幡の村々を襲って、百姓たちに乱暴をするんですね。殺しはしないんです。そうすると百姓たちは身の安全を守るのにどこがいいかと考えた時に、やっぱり鳥取城しかないね、ということでみんな百姓たちが鳥取城に何千人も入ってくる。

 だから本来、非戦闘員の百姓たちが加わってきて、ただでさえ少ない米をどんどん食べてしまったもので、吉川経家としては、これは籠城が始まったのは6月頃ですから、冬までもてば秀吉軍、当時は鳥取はすごい豪雪地帯ですので、冬になれば雪に覆われて秀吉軍も諦めて帰るはずだ、それまでもたせよう、と思っていたんだけれども、10月25日までしかもたなかった。

 これは確かな記録が残っています。いわゆる辞世の歌ではないですね、この時は遺言を書いて吉川経家が、それが10月25日で、それで自ら切腹をして城兵の命を助けてくれということで開城となりました。ここからも秀吉・官兵衛コンビが、出来るだけ血を流さない戦いというのをやろうとしていたということが分かると思います。

 で、天正10年5月、例の高松城水攻めという策を考えたのが誰なのかというのが、これはなかなか確かな資料には出て来ないんです。今年のドラマでは考えたのは官兵衛だということでやりました。これは官兵衛が主人公だからという、これも一つ華を持たせるということになると思うのですけれど。蜂須賀小六じゃないかという説もあります。その可能性もあります。

 というのは官兵衛の生まれた姫路近辺はそんなに水との戦いは経験していないのです。ところが蜂須賀小六はそれこそ木曽川べりの川波衆とか川筋衆という言い方をしますが、彼らの方が木曽川の水との戦いに慣れているので、そういう人の発想かなとも思うのですが、ただ今年の場合官兵衛が主人公ですので、官兵衛の発案で、ということでやりました。

 で、よくこの足守川という川を堰き止めたなと思うのですけが、いろいろな資料が残っています。高さ8メートル、今のメートル法にして高さ8メートル、幅が20メートルの底の方ですね、三角になりますが、その土手をなんとなんと2.6キロ、これをたった12日間でつくったという、そういう記録があります。

 私ども歴史家はその資料を信じて、12日間ですごい土手が出来たね、と思っていましたら、土木工学の専門家が、いやそれは無理だ、というちょっといちゃもんと言うか反論を出しまして、いかに当時人力でやったとしてもそれは無理だ、という言い方をして、こっちもそう言われればそうかも知れないなと思ってちょっと困っていたのですが、籠瀬良明という地理学者、自然地理の専門家が助け船を出してくれました。

 どういうことかと言うと、その足守川は要するに結構流れを変えているんですね。そうすると自然堤防というのがあったはず。その自然堤防のややかさ上げされた土手の上に少し土盛りをすれば8メートルの土手は出来る。それは2.6キロであろうと12日間くらいで出来る可能性はある、と言ってくれましたので、いまは私たち歴史家もその説に乗っておりますけれども、一応とにかくみるみる水位が上がって沈んで行くんですね。

 その沈んで行ったちょうどその頃に、例の本能寺の変が起きる。本能寺の変は天正10年6月2日、その6月2日、本能寺の変が起きた、それが3日の夜、秀吉の耳に入るわけです。この時秀吉自身は信長様が死んだということでパニックというか意気消沈して茫然自失という言い方もあります、なにも手につかない。

 その時に傍らにいた官兵衛が一言ささやくわけですよ。資料によっていろいろな言い方になります。なかには「信長殿の死はめでたい」なんて言ったという資料もあるのですが、めでたいとまでは言わないと思います。要するにこれは黒田家譜には「殿が権柄をとる」という言い方。権限の権に木へんに丙という字ですね。要するに明智光秀さえ討てば、殿が信長の代わりに権力を握ることが出来るんじゃないか、というサジェッションをした。そのぐらいは言った可能性があるので、今年のドラマでもそのようなつくりでやりました。

 そこで、注目されるのはこの時秀吉がハッと我に返ってすぐ、毛利との講和交渉を急がせろ、という。これは、始めろ、ではないのです。少し前から講和交渉が始まっていた。だからよかった。これは同じ条件下で越中、今の富山県の魚津城を攻めていたのが柴田勝家。彼は6月3日に魚津城を落とすのです。落とした直後に信長が死んだということを知らされる。運が悪いことにすぐ、上杉景勝にも知られてしまう。となると上杉景勝はすぐに取られた城を取り戻そうと思って大軍で出て来ましたので、柴田勝家はそこで4日間足止めを食って動けなかった。この4日間のロスが秀吉に先を越されるということになるので。人間どこでどのように運命が狂うか分からない話であります。

 今年のドラマでは官兵衛が毛利方の使僧である安国寺恵瓊あんこくじえけいを呼んで、信長が死んだということを秘かに伝えたという設定にしました。こういう解釈は初めてだと思います。これまでどんな歴史の本、あるいは小説を含めて、事前に信長が死んだということを毛利方に伝えたということを伝えた記述は多分ないと思います。ただこれは今年の脚本家の方が、ぜひこれをやりたいということだったので、それを否定する資料もないものですから、それで行きましょうということでやりましたけれども、私と同じ歴史をやっている仲間からは、あれは本当か? ということでだいぶ疑問符を付けられております。

 いずれにしてもこの毛利との講和交渉を急がせたということによって、あの清水宗治切腹、城兵助命、ということで両軍兵を引くということになった。今年のドラマでもやりました、この時官兵衛が小早川隆景に、毛利の旗を二十本貸してくれ、と言う。これを言っているというのは凄いことだと思います。

 というのは、それがそのあと凄い効果を発揮するんです。ちょうど今の尼崎辺りに戻って来た時に、その旗を立てるのです。そうすると摂津の武将たち、例えば中川清秀、あるいは高山右近、そういった元々本来ならば荒木村重に仕えていた連中ですから、そのあと明智光秀配下になっていますから、本来なら明智光秀につくべき彼らが、「いやこれはどうも毛利が秀吉についたなら、秀吉の方が勝ちそうだな」。

 当時はまだ勝馬に乗るという言葉はありませんけれども、勝馬に乗った方がいいなということで、秀吉側に加わってきます。これで山崎の戦いは秀吉軍圧勝ということになります。この時の官兵衛の策略っていうのは凄いと思います。

 注目されるのはこの時の吉川と小早川の対応の違いです。このあと吉川はやや秀吉から冷遇されていくのですね。小早川は優遇されていく。それはなぜかというと、この時、要するに信長の死を知った吉川元春が、信長が死んだのなら、あの約束、講和交渉は意味がない、すぐに攻めるべきだ。要するに明智光秀と挟み討ちしようということを言い出す。

 ところが弟の方、小早川隆景は、いや、もう一度誓紙を取り交わしたその墨の色が乾かないのに、それを破るのは毛利の家風ではない、ということで断わる。これはあくまで建前でしてね、墨の色が乾こうが乾くまいが、注目してほしいのは、やはり情報の違いです。

 吉川は山陰地方、小早川は山陽地方、瀬戸内に面している。ですから結構早く船で秀吉に関する情報が入って来ている。だから信長の家臣としての秀吉の凄さというのは、小早川隆景はもう熟知していた。一方、お兄さんだけれども吉川元春の方は山陰地方なんで、秀吉に関する情報がそんなに入って来ない。

 むしろどちらかというと、そんな百姓上がりのあんな武将の下につく必要はない、みたいなどちらかと言うとちょっと田舎武者というか、そういう立場で対応があったのではないか。ということでこれはやはりその置かれている状況と情報量の違いというのは大きかったかなと思います。

 この山崎の戦いで明智光秀を討った秀吉。その後翌年、有名な賎ケ岳の戦いで柴田勝家を破るわけですけれども、これによって信長後継者としての足場を固めて、すぐに何をやったかというと、例の大坂城築城なんですね。

 これは実は織田信長が安土城にいましたけれど、どうも安土城の次は大坂に城を造りたいということを秀吉にしゃべっていた可能性がある。というのは秀吉という人は信長のやろうとしたことを、結構いわゆる後追いでやっています。だから例の朝鮮出兵もそうですね。

 信長が大陸まで攻め込んで行きたいっていうのを、やっぱり秀吉は聞かされていた。で、大坂の件も石山本願寺を討ち滅ぼした後は、あそこに俺は安土の次の城を造りたい、というのを実現しようとした。ということで大坂に天正11年の9月1日から城を築き始める。

 ここでもいかにも秀吉らしいなと思うのは、やはりそれまでいくつかお城を造って来た。その城づくりの経験から改善すべき点を5項目にまとめて官兵衛に手渡しています。掟書。その中には有名な、これから石を運んで、運び終って戻って来る人と、これから石を運びに行く人と、すれ違う時にぶつかって不都合である。これよりは肩に寄りて通るべきことという片側通行を指示した、そういう命令が入っているというので、やはりなかなか秀吉というのは頭がいいなぁと思います。その実際の大坂城の本丸、二の丸、三の丸をどこに置くか、堀をどう掘るか、そういったことの縄張りを担当したのは官兵衛ということで、そこに「縄張り名人」という言い方が一般的には言われています。

 


 

owasda_02  小和田哲男(おわだ・てつお)
1944年 静岡市に生まれる 1972年 早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了 現在  静岡大学名誉教授、文学博士専門は日本中世史、特に戦国時代史で、主著『後北条氏研究』『近江浅井氏の研究』のほか、 『小和田哲男著作集』などの研究書の刊行で、戦国時代史研究の第一人者として知られている。 また、NHK総合テレビおよびNHK Eテレの番組などにも出演し、わかりやすい解説には定評がある。 NHK大河ドラマでは、1996年の「秀吉」、2006年の「功名が辻」、2009年の「天地人」、2011年の 「江~姫たちの戦国~」で時代考証をつとめ、2014年の「軍師官兵衛」も担当している。
主な著書
『戦国の群像』(学研新書 2009年)、『歴史ドラマと時代考証』(中経の文庫 2010年)、『お江と戦国武将の妻たち』(角川ソフィア文庫 2010年)、『黒田如水』(ミネルヴァ日本評伝選)(ミネルヴァ書房 2012年)、『戦国の城』(学研M文庫 2013年)、『名軍師ありて、名将あり』(NHK出版 2013年)、『黒田官兵衛 智謀の戦国軍師』(平凡社新書 2013年)、『戦国史を歩んだ道』(ミネルヴァ書房 2014年)