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バージニア・リー・バートン『ちいさいおうち』
(岩波書店)

 

 もう今は昔のこと、上の息子が小学校に入る前、生まれて初めて家を買った。当時ワシントンの法律事務所につとめていて、そのままアメリカに住みつきそうな気がした。それなら家を買わねばなるまい。春らしい春の一日、知り合いが紹介してくれた不動産屋の婦人に案内され、ワシントンの川向こう、北部ヴァージニアの住宅地で家を見て回った。

 あちこちで花が咲き乱れ、人が大勢外へ出ている。春は家が花に囲まれ美しく見えるので、不動産屋にとっては稼ぎ時だという。売り家の看板があちこちに立つ。オープンハウスといって誰でも立ち寄れる家もある。アメリカの売り家を見て歩くのは楽しい。いろいろな大きさ、間取り、スタイルがある。どの家も浴室と便所が多い。個人主義の国アメリカでは、家族といえども共にしないのだろうか。ドアを閉めていきむとき、人は本当の個人になれるのだろうか。

 冷やかし気分で家を見て歩くうち、5軒目に見た家を一目で気に入ってしまった。幼い頃に読んだある絵本を思い出したからである。

 「むかしむかし、ずっと いなかの しずかなところに ちいさいおうちがありました。それは、ちいさい きれいなうちでした」

 バージニア・リー・バートン作の絵本『ちいさいおうち』はこんな風に始まる。私たちがめぐりあった家は、バートン女史が描く「ちいさいおうち」の絵にとてもよく似ていた。どちらも丘のうえに立つ小さな家で、真ん中にドアがあり、左右に窓がある。三角屋根のてっぺんに四角い煙突。「ちいさいおうち」が1階建て、こちらは2階建て。それだけが大きな違いであったけれど、こじんまりしてかわいらしい、小さな家であることは変わらなかった。

 アメリカでも日本でも、家を買うときはふつう長い時間をかけ何十軒もの家を見るという。けれども私は5軒目に出会ったこの家を買うと、その日のうちに決めていた。

 絵本『ちいさいおうち』がアメリカで初めて世に出たのは1942年。戦争中でありながら、このような美しく豊かな子どもの本が書かれ、出版されていた。しょせん日本が勝てる相手ではなかった。戦争に負け平和が戻った日本で、この本の翻訳が出たのは、1954年。それ以来綿々と刷り続けられ、2010年に第65刷改版を、2013年には第67刷を発行している。出版から70年、世代を超えて読み継がれた、途方もなく息の長い本である。

 私が小学校へ上がる年の春3月に、この本の訳者である石井桃子さんが自宅に「かつら文庫」という子どものための文庫を開いた。私が初めて『ちいさいおうち』を手にしたのは、この文庫でであったかもしれない。石井さんは、かつら文庫での活動をつづった『子どもの図書館』という本のなかで、文庫開きの日について次のように記している。

 「三月一日がきました。曇りのち晴れの、寒い日でした(中略)。午後一時には、この春から小学校にあがるNちゃんという男の子が、一番乗りしてきました。子どもの会は、時間より早く集まればとて、おくれることはないらしいと、おとなたちは大いに気をよくしました。」

 一番乗りしてきたNちゃんは私である。石井さんが文庫を開くと知った父が、この日私を連れてきたのだが、時間を間違え1時間早くついてしまった。そのために文庫の歴史に名を残した。別のページには、この日写した記念写真があり、写真の下に「文庫びらき、前にがんばっているN・Aちゃんは、いま中学二年」とある。子どもたちが並んだその左端に、母がN・Aと刺繍を入れてくれたセーターを着て、ズボンからシャツがはみ出したまま、私が立っている。

 ほどなく小学校へ上がった私は、文庫に毎週土曜日でかけ、本を読んだ。借りた本を家に持ってかえって、また読んだ。文庫の棚には石井さんが訳した子どもの本がたくさん置いてあって、『ちいさいおうち』も必ずそのなかにあった。この本のどのページを開いても、そこには「ちいさいおうち」が必ずあった。著者バートンさんが文庫へこられたこともある。

 6年生になって少し遠いところへ引っ越し中学受験のために足が遠のくまで、ほとんど毎週文庫へ通った。本を読むのが好きで、いったん読み出すと周りのことをすっかり忘れてしまう。好きな本の物語には、それぞれ独自の世界が広がっていた。あらすじは思い出せなくても、本から受けた全体の感じは心のなかで生き続ける。かつて読んだ本を開けば、子どものころ受けた印象が一瞬にしてよみがえる。『ちいさいおうち』は何度読んでもあきない、物語のなかにいつでもすっと戻れる、そんな本である。

 「ちいさいおうち」は、いなかの丘の上で幸せに暮らしていた。夜になって遠くに街のあかりを見ると、「まちって、どんなところだろう」と思う。季節はめぐり、歳月は流れ、「ちいさいおうち」で育った子どもたちは、大きくなって街へ出ていく。

 ある日初めて自動車が現れ、ひろい道路が通り、周りに住宅が建ちはじめる。やがて「ちいさいおうち」はすっかり都市に呑みこまれてしまう。市電が通り、高架線ができ、地下鉄が掘られ、「ちいさいおうち」のとなりに高いビルが建つ。太陽が見えるのはお昼どきだけ。夜は街の灯が明るくて、星も月も見えない。

 「ちいさいおうちは、まちは、いやだと、おもいました。そして よるには、いなかのことを、ゆめにみました」

 ある朝のこと、通りかかった子ども連れの婦人が、そのまま行きすぎずに、「ちいさなおうち」じっと見つめる。

「そのひとは このいえを たてたひとの まごの まごの そのまた まごに あたる ひとだったのです。おんなのひとは ごしゅじんに、いいました。『あのいえは、わたしの おばあさんが ちいさいとき すんでいた いえにそっくりです』」

 調べてみると、「ちいさいおうち」は確かにおばあさんの住んでいた家だった。方々探してやっとみつけた、昔と同じような広い野原の真ん中の小さな丘のうえに移築され、塗り直されて、「ちいさいおうち」にはまた人が住むようになった。

 「ちいさいおうちは もう二どと まちへ いきたいとは おもわないでしょう……もう二どと まちに すみたいなどと おもうことはないでしょう……(中略)いなかでは、なにもかもが たいへん しずかでした。」

 物語はこうして終わる。

 中学に上がって大病をしたものの、その後元気になって高校から大学へ進み、留学をし、就職し、結婚した。幼い息子たちに「ちいさいおうち」を読んで聴かせた。家族とともに再びアメリカへ渡り、そこで出会ったのが丘のうえに立つ「ちいさいおうち」とそっくりの家である。もしかしたら私は子どものときから、心のなかにあったあの家を、ずっと探していたのかもしれない。

 すっかり気に入ったこの丘の上の家を、その後日本へ戻ることになり手放した。何回か前を通って変わっていないことを確かめたけれど、それからすでに何年も経つ。息子たちも独立した。長い歳月が流れたあと、いつか私たちの孫かひ孫が、またあの家をみつけてくれるだろうか。そのときになってもあの家が、ちっとも変わっていないといい。そんなふうに思う。

 




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阿川尚之(あがわ・なおゆき)
慶應義塾大学総合政策学部教授。1951年4月14日、東京で生まれる。慶應義塾大学法学部政治学科中退、米国ジョージタウン大学外交学部、ならびに同大学ロースクール卒業。ソニー株式会社、日米の法律事務所を経て、1999年から現職。2002年から2005年まで、在米日本大使館公使(広報文化担当)。2007年から2009年まで慶應義塾大学総合政策学部長。2009年から2013年まで慶應義塾常任理事。
主たる著書に『アメリカン・ロイヤーの誕生』(中公新書)『海の友情』(中公新書)『憲法で読むアメリカ史』(PHP新書)(ちくま学芸文庫)『横浜の波止場から』(NTT出版)『海洋国家としてのアメリカ:パックスアメリカーナへの道』(千倉書房)(共著)など。
撮影 打田浩一