空から見たアメリカ東海岸は、まるで冷凍庫のなかにしばらく閉じこめておいたジオラマのようだった。着陸したジョン・F・ケネディー空港周辺の沼はすっかり氷結し、わずかに残った水路から水鳥が飛び立つ。水温が空気の温度より高いせいだろう。凍りついていない川や湾の水面から蒸発した水分が瞬時に微少な氷の粒になり、白い煙のように空中を漂う。その朝のニューヨークの気温は摂氏マイナス10度。乗り換えたボストン行きの飛行機から見ても、凍てついたニューイングランドの真っ白な大地が、どこまでも続いていた。人の気配はない。外へ出たら私も凍ってしまいそうだ。

 2月上旬、現在執筆中の米国憲法改正に関する本について本場の研究者からヒントをもらうため、アメリカ東海岸を10日間ほど周り、ハーバード、イェール、ジョージタウン、ヴァージニアなどのロースクールを訪れた。最初の目的地ボストンは、すっかり雪に埋まっている。すでに3回吹雪に見舞われ、しかも温度が低いため雪が溶けない。金曜日に到着しハーバード・ロースクールで教える親しい教授の家に泊まったが、日曜日の午前中からまた雪が降り出した。月曜日の朝、吹雪のなかをロースクールへ向かう。正面から雪が吹きつけ、頬にあたる。夜のうちに降り積もった歩道の雪を、雪靴で一歩一歩踏みしめて歩いた。アムンゼンの南極探検隊のようだった。

 その日の午後タクシーを呼んでもらい、雪が降りしきるなかアムトラックの駅へ向かった。予約を取ってあった列車の出発時刻には十分間に合ったのだが、肝腎の列車が動かない。駅構内は人でごった返し、みな正面の電光掲示板で列車の運行状況を、じっと立ったまま心配そうに眺めている。地元のテレビ局アナウンサーが、取材して回る。構内とは言え吐く息が白い。列車は軒並み1時間ほど遅れていた。すでに運行取りやめになった便もある。ようやく乗車案内があると、人々は無言でホームへ向かう。文句を言う人はいない。黙々と待ち、黙々と乗車する。アメリカの人は存外我慢強いなあ。それともボストンの人は列車の遅延に慣れっこなのだろうか。

 午後3時に駅へ到着したのに、4時20分発車予定のワシントン行き特急はいくら待っても案内がない。結局5時半発の普通列車に乗り換えろと窓口で勧められ、ようやく乗りこんでほっとしたものの、今度は発車しない。架線や信号に不具合が出て、駅構内から出られないのだという。結局さらに40分遅れてゆっくりと動き出し、普通なら2時間弱で着くはずのニューヘイブンへ、ボストンの駅に到着してから6時間後の午後9時に到着した。その夜ホテルでニュースを見ていたら、あまりの寒さと降雪にマサチューセッツ州知事が非常事態を宣言したという。すべての交通機関が止まった。私は運良くぎりぎりでボストンを脱出したようだった。

 2月6日に東京からニューヨークへ到着し、16日に同地を出発するまで、とにかく毎日寒かった。寒さに雪が重なった最初の目的地ボストンに比べれば、ニューヘイブン、ワシントン、シャーロッツビルはそれほどでもなかったけれど、それでも東京とは比較にならない寒さである。ヒートテックの下着を重ね、セーターのうえに厚手のコートを着用、手袋をして帽子をかぶって、雪靴を履いて、まだ寒い。風が吹くと体感温度が零下20度ほどになる。ニューヘイブンからワシントンへの列車はほぼ時間どおり走ったが、南下するうちに少し気温が上がったのか、走り続ける客車の屋根から雪の塊が落ちるたびに、ドーンとすさまじい音がした。15日にワシントンから乗車した特急列車は低温のためブレーキが故障し、次の駅で動かなくなる。あとから来た満員の普通列車に乗り換えさせられ、ニューヨーク到着が2時間遅れた。日本へ出発する朝には、ニューヨークの気温が零下16度まで下がった。

 アメリカ東海岸の冬はいつも厳しいが、今年の冬はとりわけ極寒であるようだ。2月のボストンの降雪量は、月半ばですでに史上最多を記録した。私がボストンを去ったあと、さらに2、3回吹雪に襲われ、溶けない雪に街中覆われている。雪の重さで倒壊する建物が出た。ナイアガラ瀑布の滝の水が、ニューヨークのセントラル・パークの噴水が、フィラデルフィアでは火事の現場に到着した消防車の放水が、そのまま凍りついたという。帰国後ケンブリッジで世話になった友人から、「本当に深刻な事態だ、いやになる、春が待ち遠しい」とのメールが届いた。5回も6回も大雪に襲われ、タフなボストン市民も、さすがに参っているという。

 アメリカの寒い冬は、これまでにも何度か経験した。1975年最初にワシントンの大学へ留学したときの冬にはポトマック川が凍結し、氷の上を自動車で渡る人がいた。1981年からワシントンのロースクールで学んだ冬にはあまりの低温にアパート前の針葉樹の葉が凍結してしまい、触るとぽっきり折れた。ニューヨークで働いた1984年の冬には、自宅から地下鉄の駅まで徒歩で歩くわずかなあいだ、息をすると肺のなかが凍りつくような日が何度かあった。1995年から96年まで1年間ヴァージニア大学ロースクールで訪問研究員として暮らしたときには、大雪のために子供の学校が何度も休校になった。駐車場にとめた車が雪に埋もれて、1週間出せなくなった友人もいた。

 いくら寒いといっても、現代のアメリカでは室内に入れば日本の住宅にいるよりむしろ暖かいほどである。しかし200年前のアメリカにはセントラルヒーティングが完備し、外と断熱された家はない。初期の植民地では暖房が不十分なだけでなく、食料も乏しかった。冬を越せない病人や老人は、その多くが死んだ。春になって本国から船が到着すると、植民地に誰一人生き残っていなかったことさえあった。

 最初に留学した年の冬、ニュージャージー州の友人の家の近くで、独立戦争の際兵士が冬宿営した粗末な建物を見学したことがある。寒い冬はめったに戦闘がなく、兵士たちは板のうえにわらを敷き、外套を布団がわりに体にかけて横になった。マンハッタンで英軍に敗れ、ニュージージーへ逃れたワシントン将軍率いる大陸陸軍の兵士たちは、降り積もる雪のなかを行進する。なかには靴をなくし、素足で歩くものたちさえいたという。疲れ切った兵士たちをワシントン将軍は励まし、「極寒の冬、希望と勇気しか残されていなかったとき、我々が1つにまとまって戦ったことを、後世に伝えよう」と述べ、兵士たちを励ました。そして流氷が浮かぶデラウェア川を渡り、トレントンの町に宿営するイギリス国王の傭兵部隊を急襲して、勝利をおさめた。この戦いで勝たなかったら、アメリカ合衆国の独立は無かったと言われている。2008年、凍てつく屋外で行われた就任式で、オバマ新大統領はこの功績を称え、リーマンショック後の深刻な経済問題を抱えたアメリカで、「我らもまた氷結した川を渡り、吹雪と戦い、我らの冬を乗り切ろう」と呼びかけた。

 1831年の冬、フランスの貴族で後に『アメリカのデモクラシー』という名著を残すトクヴィルは、アメリカの内陸を横断した。蒸気船で下る予定のオハイオ川がシンシナティを出たところで凍結してしまったため、陸路でミシシッピー川沿いのメンフィスを目指した。ワシントンがデラウェア川を渡った1776年以来という寒波のなか、乗っていた駅馬車が壊れ、歩かざるを得ない。風邪を悪化させ丸太小屋の簡易宿舎で寝込んでしまう。大きな火をおこしているのに、すきま風が容赦なく吹き込み、体が凍える。外の気温は零下13度。水を注いだコップの水が5分たつとかちんかちんに凍っている。よく生き延びたものである。

 それから120年後、ロックフェラー財団のフェローとしてアメリカに渡った福田恒存は、「アメリカの自然と生活」という短編で、滞在中に出会った人工的な「アメリカのにほひ」を、アメリカ文明の象徴と捉えた。アメリカ人は彼らを取り巻く圧倒的な自然と闘い、自然から切り取り、自然を遠ざけて生きてきた。

 「その自然が荒々しいものであればあるほど、さうせざるをえなかつた。(中略)外部の硬さから肌を守るためには、内部を柔く居心地いいものにすることが必要だつた。(中略)「アメリカのにほひ」は、じつはこの文明のにほひ」である」。

 この冬、寒いアメリカへ旅をし、厳しい自然と闘う現代のアメリカ人を見て、福田のこの文章を思い出した。

 アメリカ国民は内外でいろいろ大きな問題に直面している。一見混乱しているように見えるけれども、存外しぶとく強いのではないか。厳しい冬をじっと耐え、それでも元気にユーモアを失わない彼らを見て、そう思った。アメリカ人を「なめたらいかんぜよ」。

 


 

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阿川尚之(あがわ・なおゆき)
慶應義塾大学総合政策学部教授。1951年4月14日、東京で生まれる。慶應義塾大学法学部政治学科中退、米国ジョージタウン大学外交学部、ならびに同大学ロースクール卒業。ソニー株式会社、日米の法律事務所を経て、1999年から現職。2002年から2005年まで、在米日本大使館公使(広報文化担当)。2007年から2009年まで慶應義塾大学総合政策学部長。2009年から2013年まで慶應義塾常任理事。
主たる著書に『アメリカン・ロイヤーの誕生』(中公新書)『海の友情』(中公新書)『憲法で読むアメリカ史』(PHP新書)(ちくま学芸文庫)『横浜の波止場から』(NTT出版)『海洋国家としてのアメリカ:パックスアメリカーナへの道』(千倉書房)(共著)など。
撮影 打田浩一